ヘリオトロープ





「なんか、調子狂うな……」
窓辺で煙草をふかしていたハボックが、そうポツリと漏らした。
煙を逃がすために少しあけた窓、吹き出した煙はその細い隙間からゆっくりと空へと吸い込まれて行く。灰色の重たい雲がゆっくりと流れてゆく午後、雲を透かして届く太陽の光は明るく、この季節にしては、今日は暖かかった。
何とはなく、ハボックの肩越しにその空を見上げていたブレダが眉を微妙に歪めて冷たくなっている珈琲を啜った。香りなどほとんど無く、嫌な苦さが広がった。
「これが、あるべき日常ではあるんだろうけどな」
セントラルシティーの治安を預かる中央司令部内の士官が、2人も揃って勤務時間中に無駄口を叩いているのだから、平和なものだ。
仕事が無いわけではない、デスクの上には手付かずの書類が重なっているし、ファイル整理に報告書の作成、仕事はあるのだ。
ただ、その期限が非常に先であったり、報告書待ちであったり、目先に迫ったものが何も無い。

これまで、上司の背中を見てきた彼らにとっては、これはもう奇跡としか言いようが無い状況が、ほぼ二ヶ月前から目の前に広がっていた。
上から回ってくるものは、完璧に仕上げられていてあとは各部署に届ければいいようなものばかり、上にまわすものは何週間も後でも間に合うようなものばかり、更にそれらを催促される。

本当にこれまででは考えられない状況だと言える。
彼らの上司は、できる人間である。
セントラルでの彼への評価は、非常に高い。何をやらせてもそつ無くこなすし、期待以上の成果も出してくる。
それはもう、軍人として完璧な面を表には見せている。それ故に随分と敵は多いし、味方も無くは無いが佐官から将軍位に昇るまでは、大っぴらにそれを示す人間は少なかった。
セントラルへの栄転から始まったスピード出世。もともと、国家錬金術師として、科学者としての評価も高かったとはいえ、上の方ではそれは揉めただろう。

腹と歳の出っ張った多くの将軍方は、日々戦々恐々としていただろう。自分の、下手をしたら半分ほどの若造が明日にも自分と並び、そして上に昇って行くのだと、少し前までなら笑い飛ばせたことが、今目の前で起きようとしているのだから。

だからこそ、失敗は、許されなかった。
気分的には、敵の本拠地に殴りこみに来たようなものだと、ハボックは思っていた。
セントラルは、国の中枢である。この場所の権力闘争は非常に厳しい、裏の裏が表ではないし、腹に一物も二物も抱えて、腹の探りあいと、期を読み違えなかった者だけが生き残っていく。正攻法が通じるところよりも、それだけではつぶされるところの方が、大きい。
ロイ・マスタングの直属の部下であることが既に、危険要因なのだと分かってはいたが、実際はもっと厳しい。
返事一つ、身の振り方一つであらゆるものが左右される。
皆、よくここまで噛り付いてきたものだと思う。
軍人としてでも、もう少し楽な生き方があっただろうと思う。それでも、身体でなく神経をすり減らして軍人を続けているのは、着いて行きたいと思ったからだ。
普段、だらだらとデスクに溜め放題溜めた仕事を前に、現実逃避をしている姿や、それを部下に咎められて銃で脅されている姿を見せているのは、擬態なのか本当の姿なのか、判断しかねるが、けれど一度懐に入れた相手を切り捨てる事は簡単にはしないと、いっそそうしてくれたら楽だと思えるほどに、身内には甘い面を見せる。
冷たい言葉を吐いても、突き放すようなことをしようとも、けれど糸の最後の一本は、自分からは切らない。
致命的な人間臭さだと思う。
けれど、その部分がなければあらゆるものを捨ててでも、付いていこうと思ったりはしなかったと思う。それは、きっと彼に付いて行くと決めた者は皆思うことなのだろう。
身内には、甘い。
けれど、もっと甘くなる人間を、彼らは知っている。

「心中、複雑なんだろうねぇ」
「……おい…」
自分たちですら、そうなのだ。彼の心中はいかばかりだろう。と、ふと思ったことが口を付いて出てきた。
珍しく、肺にまで煙を入れて大きく吐き出しながら、誰に言うとも無く言って、今まで隣に居たブレダが小声で呼ぶ声に、首を傾げながら振り返って、つい目を逸らした。
「ハボック中尉」
「申し訳ありませんでした」
張りのある女性の声に、何かを言われる前に謝った。
ホークアイ大尉が、小脇にファイルを抱えてそこに立っていたのだ。気付かなかった事を悔やんでも、もう遅い。
そういば、今はまだ勤務中である。
「昼休みが終わった後でいいのだけれど、少し出てきてもらえるかしら?」
「……は?」
「買って来てもらいたいものがあるのよ」
サボっていた事を咎めるでもなく、彼女が切り出した話に、ハボックも、ブレダでさえ目を丸くした。
そして、優しげに苦笑する彼女を目の前にして、目を見合わせて笑ったのである。




二ヶ月前、だっただろうか。
電話が鳴った。
昼前まで降っていた雨が上がって、洗い流された大気に差し込む夕日がまぶしくて、窓のブラインドを下げようと立ち上がったとき、ベルが鳴ったのを覚えている。

『大佐……』

今の階級はもう少し上がっていると、言葉が浮かんだが声になる事は無かった。静かで、けれど悲しさや辛さや、時々どうしようもなくなった時、何も言葉にしないくせに自分にかけてくる声ではなかった。

知らず、息を止めていたと思う。
今はもう思い出せない。
電話の向こうで相手が一言だけ告げた。
自分はなんと答えただろう?


―――――おめでとう。


たった一言。

たった一言を搾り出すのに、どれほど掛かっただろう。
会話は、それだけだったような気がする。
組んだ手に額を押し付けて、居もしない、在りもしない者に、初めて心から感謝した。
額に押し付けた手が、微かに震えていた事に気付いたのは、音も無くそっと引き返して行った、お茶を運んできた部下だけだった。
思い返せば、もっと聞きたいことがあった。言いたいことも今は、たくさんある。いざとなると気の効いた言葉の一つも出てこない自分に笑えてくる。

そういえば。
あれから、彼の声をきいていない




次の日、何事も無かったかのように出勤して、天気の話をするように、イーストシティーから引き抜いてきた部下に、エルリック兄弟が宿願を果たしたと、ロイは告げた。

ぽかんとしていた一同が、沸き立つのに多くの時間は掛からなかった。

「めでたいっすね、今日は少将の奢りで祝いましょう!」
「お前…、俺らだけでやってどうすんだよ」
「お祝いに何か贈りたいですね。何がいいでしょうか?」

我が事のように喜ぶ部下達を、ロイは口元に苦笑を乗せてみていた。
詳しい事情を知っているのは、ロイとホークアイだけだ。けれど、長い付き合いの中で彼らも何かしら察したのだろう、アルフォンスに会ってみたいと言う声も聞こえてきた。
何時の間にか彼らの存在は、司令部メンバーたちにとって大きくなっていたし、気持ちの内では既に身内になっている兄弟たち。
表立って何かできたわけではない、けれど何度となく、司令部の扉を叩いてやって来たエルリック兄弟。まだ幼い兄弟が、二人だけで誰の庇護も必要とせず、街から街へ当ての無い旅をしていることは、彼らがそんな感情を向けられることを良しとしないと分かっていても、大人の目には痛ましく映った。
彼らの宿願達成は、大人たちにとっても喜ばしいことであった。
喜び合う大人たちの中で、ふとフュリーが思いついた様な顔をして、少し眉を下げた。

「でも、寂しくなりますね」
その言葉に、ハッとした一同が、言わんとするところを理解して、やはり苦く笑った。
「そりゃ、な。もう、軍に顔出す必要もないわな…」
数年前よりは若干緩和されてきたとはいえ、民衆からの軍への心象はあまりよくない。
公には、多くの情報は流れず、ただ急死と報道された前大総統キング・ブラッドレイがその座を退いた後、イーストシティーを長年治めていたグラマン将軍が大総統の位へ昇った。

一般市民や一兵卒が知るところではないが、イシュヴァールを経験した後穏健派で知られる彼が大総統の位に付くことに、大きな反対は無かったという。彼の手腕は知るところであったし、大総統の交代と共に上層部の顔ぶれも大きく変わったという点も大きかった。
徐々にではあるが、議会へのあらゆる権利の譲渡など、軍の権限を弱め、民主化への動きが見られる。
今の、この時期に一般民衆に人気のある鋼の錬金術師の存在は、軍にとってプラスになるものではあるが、だからといってそんな事情で、彼をここに縛り付けることには後ろめたさを感じるし、彼らの上司がそれをするとは思えない。
後見に付いた後、影で兄弟たちへどれほど心を砕いていたか、それを皆知っていた。

「少将、エドたちからその辺のこと何か聞いてますか?」
それまで、輪から離れていたロイに声が掛かった。
一同がこちらを見る中、ロイは表情をそのままにただ軽く首を振った。
その時、気付く者は気付いたのだ。
彼らの上司が、兄弟たちの事を誰より喜んでいることを、けれど………。

「落ち着いたら、また連絡を寄越すだろう。鋼のはともかくアルフォンスはその辺りしっかりしている」
「幸い、国家錬金術師の査定も終わって間もない。すぐにどうこうという事もないしな」
「それでは、もう仕事に戻れ。昨日の事件数件の報告書が上がってくるはずだろう」
それだけを言って、自分の執務室へ戻ってゆくロイの背中を見送って、誰かが小さく息を吐いた。


その手を離せるなら。
諦められるのなら。

行き着いた先はもっと別のものだったという、ものの見方は、往々にして本人よりも周りの人間の方ができることがある。どこまで何を知っているのか、と問われたら、何も…本当に何も知らない、と答えるほか無いのだが。
けれど、皆誰も何も言わない。
事態は好転している。間違いなく。
だから、外野は大人しく見ているしかない。
この先、彼らがどの道を選ぶことになっても、それは他の誰かが口を挟めることではない。



けれど、彼らの上司は忘れていると思うのだ。
選ぶのは、彼ではなく彼らであるということを。






―――コンコンッ
控えめにノックの音が聞こえて、ロイは目を落としていた書類から顔を上げた。
「入れ」
と、短く答える。相手は分かっている、こんな風にノックをするのは彼の部下では一人しかいない。
けれど、首を傾げる。彼女は暇ではない。
時計に目を走られると。昼食をとってからほぼ一時間と言ったところだろうか、確か今日のこの時間は軍法会議所に出向いているのではなかっただろうか?
「失礼します」
やはり、女性の張りのある声が響いて、無駄な動きの無い綺麗な敬礼の後、つかつかと自分のデスクに近づいてくるのは、ホークアイだった。

「何か緊急事態でも?」
「どちらかというと急を要します」

彼女の身振りからその様な事態は想定できなかったが、声に出して聞いてみる。しかし、その返答におや?と目を開く。
採決済みの紙の束をファイルに綴じ、彼女に手渡した後、自然に指をデスクの上で組んで組む。そして、視線は彼女に向ける。何か、たぶん仕事ではない話があるのだろうという事は、分かっている。
その内容も。
職務に支障をきたすどころか、過去にこれほどまじめに働いた記憶が非常に希少なほどの勤労を見せていたはずだ。それを周りがどう取るか、分からない訳ではなかったが、食事も休養も普段どおり取っているのだから、顔色や体調がどうのと心配されるほど無茶をしているわけでもない。ロイとしては、暫く放っておいてくれというつもりだったのだが、そうも行かないらしい。

「私は、何かミスを犯したかね?」
「部下が今の職場の状況に慣れると、何時もの閣下に戻られた後苦労しますので」
ある程度は予想していたが、また手酷くきた。
「午後二時四三分発のイーストシティー行きの列車を取ってあります。そこからは、在来線を乗り継いで行って来てください。ダイヤを確認したところ、明日の朝には付けるかと思われますので。こちらの事はお気になさらず、閣下が最近サボらずに働いてくださったおかげさまで、何の問題も無く有給が下りました」
「ちょ…ちょっと待て」

流石にそんな内容は予想しなかったロイは、慌てた。
「きっちりと、振られてきて下さいね」
上司の声を遮って、優しげな笑顔でそんな事を言われれば、もう抗う術も逃げる術も、何も存在しなかった。
もとより、そんなものは無いけれど。
その後すぐに帰り支度を整えて、車寄せで待機していたハボックが司令部からロイの自宅と駅間を軍用車でとばし、絶妙な時間で駅まで滑り込んだ。
中央出口に堂々と乗り付け、敬礼で見送られるロイは若干の居た堪れなさを向けられる往来の視線から感じながら、必要最低限を詰め込んだバックとコートを片手に、改札をくぐった。
ホークアイが渡してきた列車のチケットは、やはりきっちりとコンバートメントで、たっぷりと一人で考え事ができるようになっていた。
あまり考えたくなくて、ずっと仕事に打ち込んで。家に帰れば、書斎に篭って本を広げたり、あまり興味もなかった研究を進めてみたり。ずっとそんな日を過ごして来た。
「……考えなかった、わけじゃない」

誰も聞きとがめることがない事を知っていて、呟きが零れた。
流れ出した景色を見ながら、思う。
考えないことは無かった。もとより、彼とは道が交わることは無いと思っていたのだ。
けれど、手をのばして…。
思いがけず返された手はとても暖かくて、そして交わした想いは同じ色をしていた。
思い出せないほど多く触れ合ったわけではない、少しずつ少しずつ、ゆっくりと重ねてきたのは、お互いの暖かさをそっと伝えるような、そんな触れ合い。
何も急かなかった、ゆっくりと大人になればいいと思っていた。他の子供よりもずっと早く、大人になる事を自分に科した彼だからこそ、そういう急かし方はしなかった。
恋人のそれというよりも、親兄弟、家族のそれに似たものである事をロイは分かっていた、けれどそれだけではないからいくらでも待とうと思っていた。
親友が満面の笑みの中、それでも照れたように言った『たった一人を見つけた』という言葉が、事あるごとに思い出された。常識的なものを考える部分が笑い飛ばしたが、けれど胸の中にすとんとその言葉は落ちてきた。
それは、とても幸せな事なのだと、知った。
ある程度の信頼はされているが、基本的には気に入らない大人だと思われていると思っていたあの頃、自分も必要以上に賢い、けれど使いどころの難しい子供だとそういう認識だった頃は、確かにあった。
けれどその頃が、今はもう思い出せない。
自分はこれほど貪欲に上を目指して、そうしてこんな速さで肩に星が増えていったのに。彼も必死に一分一秒を争うように国中を飛び回って、確実に前に進んでいたのに。
彼との時間は、ほんとうにゆっくりと流れていって、その穏やかさと、心地よさについ目を瞑った。




コピー本の原稿編集なしでコピペしました。
読みづらくてごめんなさい(><);