ヘリオトロープ






「ウィンリー―ッ。ちょっと行ってくっから、アルのこと頼むな!」
「うっさいわねー、そんな声出さなくたって聞こえてるわよ!」

まだ冷たい朝の空気が漂っていたが、今日は良い天気になりそうだ。
エドワードとアルフォンスが身体を取り戻してから二ヶ月が経とうとしている。
ある日の夕方、何の連絡もなく帰ってきた兄弟。
階下で、祖母が二人が帰ってきたと呼ぶ声に、何時ものように帰ってくるなら連絡ぐらいしろと叫びながら、階段を下りていって玄関先で祖母が目頭を押さえているのが、まず、はじめに見えた。

何時もと何も変わらないエドワードが困ったような顔をしていて、その隣で彼に良く似たけれど彼よりも小柄で身体もずっと細い……やつれたと表現した方がしっくりくる少年がエドワードに抱えられるようにしていた。思考が追いつかず、声も無く首を傾げるウィンリーに、その少年は掠れた、けれどしっかりとした声で言った。
「ただいま。ウィンリー」
懐かしく響いたその声に、ただ涙が溢れて来て、思わず兄弟に抱きついてわんわんと泣いた。

あれから、兄弟はロックベル家で養生している。
アルフォンスは、戻った肉体がまだ上手く動かせず、衰えてしまった筋肉と体力の回復を第一目標に、まだ半分ベッドの住人であるが、日々の生活の全てを幸せそうに送っている。
リハビリはまだ暫く掛かるだろうが、彼なら大丈夫だろう。
エドワードも、取り戻した右手と左足に違和感が残るのか、まだ上手く動かせないでいたが、松葉杖を片手に日常生活を送っている。左手も聞き手と同じくらいに使えるだけに、然したる不便も感じていないようだ。
完全に違和感が消えるには、手足の成長が身体に追いつくまで掛かるだろうが、ほとんど身長も伸びていないので、こちらも大丈夫だろう。………と言ったら、猛然と怒っていた。

ウィンリーは思う。
祖母のピナコと、エドワードとアルフォンスとの生活。この穏やかな日々が続けばいいと。
けれど、たぶん。あまり長くは無いと思うのも事実だ。
アルフォンスはともかく、エドワードはもう自分の居場所を見つけてしまったのだと思う、そこはウィンリーもアルフォンスでさえ立ち入る事ができない場所なのだと思う。
たとえ、その場所に行けなかったとしても、エドワードはもう次の道をちゃんと考えている。アルフォンスが、あれがしたいこれがしたいと、ベッドに腰掛けて目を輝かせて言う夢とは、同じようで少し違う。
大人になってゆく。
と言う言葉が、正しいのかは分からない。でも、ある時を境に時々エドワードの背中が大きく見える。毎日泥だらけになるまで外で遊んでいたガキ大将だったエドワードとは別人のようで、それは幼馴染として悔しくて、そして羨ましい。
日課のようにリハビリもかねて散歩に出かけてゆくエドワードを見送って、扉を閉めた。


「ウィンリー」
「え。アル、大丈夫なの?」
今度は、手摺りに身を寄せて二階から自分を呼ぶアルフォンスに驚く。少し部屋を出るだけで脂汗を滲ませて息を弾ませているアルフォンスの姿に、ウィンリーは階段を駆け上がって、肩を貸す。
ピナコは今日、往診に出ていて夕方まで帰らない。

「うん。窓の外が見えてね……ちょっと、下まで降りたいんだけど。手、貸してね?」

ウィンリーの肩に捕まりながらアルフォンスが言った。
生長を止めていた身体は、ウィンリーの様な少女の力でも充分支えられた。それが少し寂しいが、けれど暖かい身体にもういちど触れられた喜びのほうが彼女には大きい。

「ごめんね。ベッドじゃなくてちゃんと迎えたかったんだ」
「え?」
階段を一段一段、しっかりと確かめながら下りながら口を開いたアルフォンスの言葉にウィンリーは首を傾げた。
そんな幼馴染の少女を見ながら、「でもね」と苦笑して返すアルフォンスはぺたりと最後の一段に座り込んだ。

「ちょっと遅かったみたいだね」

彼がそういうのと同時に、ロックベル家のノッカーが響いた。アルフォンスが笑って身振りで開けてあげて、と言うのでウィンリーはそっと玄関の扉に手をかけた。
そして、落ちてきた影を見上げる。

その瞬間、目が合った来客に一瞬ぽかんとしたあと、扉を大きく開いて中に招き入れた。











カサカサと、下草を踏みしめながらエドワードは畦道を歩いていた。
手足を取り戻した直後は、足を取られて何度も転びそうになった道だが今は何とか普通に歩いてゆける。といっても、まだ松葉杖を付いているのだから、普通にとは言えないのかも知れない。
念願だった弟の身体を取り戻して、本心ではどうでも良かった自分の手足さえ元通りになった。
母親を生き返らせようと禁忌に触れたのが十一の時。正直、こんな短時間で叶うなんて思ってなかった。それこそ、自分の生涯を掛けるつもりで旅していたのだ。

エドワードは、今年十八になる。
国家錬金術師資格をとって五年だ。エドワードが生まれて、生きてきた年月から考えると充分に長い時間と言えるだろう。
いろいろな事があって、いろんな人と出会って。たぶん、失った物よりも得た物の方が多いと思う。

「かあさん、おはよう」

小高い丘を登りきって、エドワードは村を見下ろす場所に位置した母の墓石の前へ来た。
毎朝、足を慣らすためにここまで歩いて、一人ぼんやりとしてから、帰ってゆく。
はじめは朝早く出ても、帰りつけるのは昼過ぎだったのが今は本当に散歩だといえる時間で歩ききれる。たった二ヶ月で、いろいろと変わったことはあるのだ。
そういえば、少し身長も伸びた。
漸く時間が動き出した気がして、エドワードは口元に笑みを浮かべた。

「かあさん、俺決めたことがあるんだ……」
 
そっと冷たい石に触れながら、母に報告した。
止められるとは思わない、しかし喜んでくれるかはわからない。
けれど、自分で決めた道だ、賛成してくれたら嬉しいと思う。ピナコやウィンリーにも今晩には話そうと思う。
迷っているのを見抜かれて、アルフォンスにはもう話してしまった、そして背を押された。


「軍人ってのはそんなに暇なのか?」

「……見舞いに来た人間に、随分な言葉だな、鋼の」
背後に気配を感じて。タイミングを見失ったようにそこから動かない相手に、先に声をかけたのはエドワードだった。

「どうしてここが?」
「アルフォンスと、ウィンリー嬢が教えてくれたよ。いい、場所だね」

ゆっくりと立ち上がろうとして、そっと差し出された手に目をやるが、にやりと笑って弾いて立ち上がる。

「もう大分、馴染んできたよ。ほんとに自分の手足なんだって漸く思える」
伸びをして答えるエドワードの腕はしなやかだった。
「なんかさ、機械鎧長かったから。今はなんか変な感じがしなくも無いんだけどさ…」
「どちらも、立派な君の手足だよ」
照れたように笑うエドワードを、目を細めてロイは見る。まるでまぶしいものを見るように。
そして、ゆっくりと距離をつめると、躊躇うそぶりを見せた後、そっとエドワードの右肩に触れた。
「なんだか、随分軽くなった」
「………あたたかいな」

目を閉じて、肩から腕に触れるロイに、エドワードは何も言わず、自分も同じように目を閉じていた。

「うん、あたたかい…」

何度も何度も確かめるように触れてくる暖かい手を、エドワードもまた感じていた。機械鎧を撫ぜてくれた手の動きを覚えていた。けれど、今はそれを血の通った自分の腕で、自分の皮膚で感じることができる。

厚みのあるコートの上からでも、感じられた。ヒトの柔らかさ、生きているそれだけが持っている暖かさ。
どうしてだろう、どうして他人のぬくもりはこんなにも暖かくて泣きそうなほど幸福になれるのだろう、否、他の誰かでは代わりにならない事を、お互いが一番分かっていた。
ロイの大きな手が、エドワードの右手を取った。
ロイは、その手をとても大切なものを扱う手つきで、自分の両の手で包み込んだ。
一撫でしたあと、エドワードの手をそっと自分の頬に押し付けた。

「……っ」
流石に、気恥ずかしさを感じたエドワードはその手を引こうとしたが、けれどすぐに思い止まる。
添えられているロイの手が、強くエドワードの手を握っているわけではない、その手は本当に支えるためだけに添えられている。母の墓前だということは、もう頭の中から抜け落ちていた。
屈んだロイの表情は、落ちている前髪が邪魔をして、良くは見えなかったけれど、泣き出しそうなほどに幸福な顔をしているように見えた。
「おめでとう。…おめでとう、鋼の」
自分の手を頬に当てて、慈しむように何度も何度も頬を摺り寄せる目の前の男を見ながら、エドワードは漸く、本当に終わったのだと思えた。

「た…い…さ……」
「…ん?」

顔を上げたロイ、エドワードの表情を目の前にして今度は躊躇いなくエドワードの頬へ、自分の手を伸ばした。見たこともないほど綺麗に笑いながら、エドワードの瞳からは止め処なく透明な雫が滑り落ちていた。

何時だっただろう、幼い少女が父親の人体実験の犠牲になった時以来、彼は自分の目の前で泣かなかった気がする。
辛いことも苦しいことも、数え切れないほどあったけれど、涙を流すエドワードを見るのは、それ以来だったはずだ。
彼は何時だって、心で泣いてきた。


「たい、さ…」
「うん?」

自分を呼ぶ呼称が、過去のものであることにロイは気付いたが、そんなことは瑣末なことだった。膝を突いて、下から覗き込むようにエドワードと目を合わせる。
溢れる雫は、拭う手をすり抜けて次から次へと落ちてゆく。
エドワード自身はそれを拭うこともしない。
「大佐……ずっと、ずっと……言いたかったことが…あるんだ……」
嗚咽が混じって途切れる言葉。けれど、たった一言だけ、エドワードは、息を吸ってはっきりとした声で言った。






 ――――ありがとう…。





その言葉を聴いた瞬間、ロイはエドワードをきつく抱き締めていた。全身で感じるエドワード。
背に回した手が感じるのは以前のように編まれず、背中の中ほどまで垂らされた髪。エドワードの頭を抱きこむようにして、彼の全身を確かめるように抱き締めた。
そして、同じだけの強さで必死に抱き返してくれる両の手。

拭えない、不安があった。

彼がまた誰一人知られることなく、どこか対価を持っていかれたのではないのか、そんな不安があった。

それも全て、エドワードの鼓動の音と共に消えてゆく。
自分の腕の中で、ありがとう、と繰り返す少年をきつく抱き締めて、その髪に頬を寄せて、彼に出会えた奇跡を思って瞳を閉じた。

後悔など、何もない。



「…あーもう…」
ひとしきり泣いた後、頬を染めて手を突っ張ったエドワードを微笑ましく思いながら、そっとその手を離した。
そして、後になってしまったが、彼の母の墓前に手を合わせた。彼は、何も言わずにそれを見ていた。

「鋼の……いや、もうそうは呼べないな…」
振り返ったロイは、意を決したように口を開いた。
同時に、すっと手が彼の前に伸ばされる。その意味をエドワードは理解していた。今も、ズボンのポケットの中にそれは入っている。

「ここからさ、始まったんだ」
「…………」
「ここで、母さんの葬式が終わった後、アルフォンスに俺が言った。『母さんを、生き返らせよう』って」

語りだしたエドワードに、悲痛さはない。ただ、過去の事実を語るだけ。

「ただそれだけの為に、師匠について必死に勉強して、それであの日取り返しの付かないことをした」

ロイがリゼンブールを訪れる、それは数日前の話。彼が少し早くこの村に来ていたら、きっと今自分たちは共にここに立ってはいなかったはずだ。

「絶望の底にいて、周りなんて何にも見えなくて……でも、あの時あんたが光をくれたんだ。道を、示してくれたんだ」

それは決して楽な道ではなかったけれど、エドワードが立ち上がるには充分だった。

「だから、次の道は自分で決める。あんたの手からじゃなくて、自分の意思で決める」
「……それは」
「コレはまだ返さない。もう少ししたら、俺がセントラルに行くよ。待っててくれる?」
「―――っ。何を言っているのか、分かっているのか?」

嘘や冗談を、この場でエドワードが言うはずはないとロイは良く分かっている、けれど語気が荒くなるのは自分の都合の良い夢でも見ているのだろうかと、錯覚してしまいそうになったからだ。

「分かってるよ、いくら軍の解体が進められているとはいったって、急激に変わるはずはない。俺がこの時計を持っている限り国家錬金術師の名の下にいつ召集が来るかわからない」
「分かっているなら!君にはこれから幾つも、数え切れないほどの可能性と未来があるんだ。それを潰すような事を自らするな!」

まだ、何が起こるかわからない。
こんな状況で史上最年少国家錬金術師、天才エドワード・エルリックがセントラルに腰を据えれば完全に、彼は誰彼と言わずマークされるだろう。
興味や好奇ならいい、しかし悪意をもって彼を利用しようとする者は、彼が考えるよりも多いだろう。


「前に、ちょっと話し聞きに言った研究所の所長にさ、うちに来いってずっと言われてるんだよね」
「研究所?受けたのか」

ロイが思いつくのは一つしかない。
ここ最近民間にも開放されたセントラル医科学研究所だろう。ロイは内心舌打ちしたい気持ちになる、エドワードへの各所からの引き抜き勧誘は、それとなく牽制いていたつもりだが、やはり目の届かないところもあった。

「条件付でね」
悪戯っぽい顔で笑っているエドワードを横目に、ロイは額を覆った。目だけで話の先を促す。
「あそこの付属大学の生徒ならって条件で。向こうは二つ返事で了承した」
「学生…か」
確かに、もともと軍施設だった研究所は今もまだ7割以上軍の手の中にあるが、軍からの介入を嫌って、何代か前の所長と研究員が私財で建設した施設は、今はアメストリス屈指の名門として多くの逸材を育てている。
それでも、理事に軍の高官が着いているのは、致し方ないが、何かの約定があったのか、必要以上の介入はないという。付属と言っても、国の教育施設と名目は立っている。
予期しなかった返答に、ぽかんとしたロイを見やってエドワードはまた笑みを深くする。


「あんた、さっき言ったじゃないか。俺の目の前には可能性も、希望も広がってるって」
「ああ」

ロイも頷く。
彼はまだ成人すらしていないのだから。

「だからさ、自分にできること、やりたいことちゃんと前を向いてやっていきたいんだ。そうしたら、自分を誇れるだろう?」
「君は、やりたい事を見つけたのか?」
「…ちゃんと、医学が学びたい」

まかりなりにも後見を勤めていた自分に何の相談もなかった事に、少なからずショックを受けた。けれど、医学を志すと言ったエドワードに、ロイは意外だと言う印象は受けなかった。命を摘むことよりも救う方が、彼にはずっと相応しい。
ポケットの中から出した銀時計を、手に乗せてエドワードは続ける。

「軍医に志願したっていいけど、最終的に目指す場所は、あんたの隣なんだと思う。………あんたは、さ。俺と別れたって平気なんだろうけど俺だって、旅してる時はそう思ったし、こんなもんすぐに捨ててやるとか思ってたけど……でも、これは保険なんだよ。利己的だと思うよ、ズルイだろう?でもこんな狡さは、きっとあんたが教えたんだ。…あ――もうっ、何言ってんだ俺」

ガシガシと頭をかきながら、エドワードが言う。


「だからさ、覚悟してろよロイ・マスタング!」

びしっと指を突きつけられる。
別れて平気だとか、大いに反論したい部分があったにも関らず、それよりも重大な事に気付いてしまった。
 
もしかしなくて、今自分はとてつもない告白をされたのではないだろうか。

反応を返さないロイを訝ってエドワードが眉を寄せて、首を傾げるが、今のロイには随分と可愛らしいしぐさをしているな、としか写らない。
口元が緩んでくる。もう仕方がない。

「馬鹿者。覚悟するのは君の方だろう」

突き出された腕を引いて、バランスを崩したエドワードをまた抱きこむ。

「そんな大胆な告白をされて、簡単には逃がしてもらえないと思え」

覗き込むように目を合わせて言われた言葉に、自分が先ほど放った言葉を思い出したのか、急に顔を赤らめたエドワードが愛しい。

「だ…だって、回りくどく言ったところでどうせ、もう会わない気満々なあんたには伝わらないだろう!」
自分はそんな顔をしていたのだろうか?部下たちに放り出されたのも当然なのだろう、エドワードにまでこんな事を言われるとは。苦笑が漏れた。
「どうにもね、君の事になるとネガティブな思考に偏るらしいよ」
エドワードが、額をロイの胸に押し付けて言った。
「あんたが、誇れる俺になりたい。そう思うよ」

  隣に立っていられるように。

エドワードの言葉に、ロイこそが思う。彼が誇れる自分であれるように――――と。
けれど。

今はただ、このぬくもりを確かめるように目を閉じた。





それは太陽を呼び戻す石。