Sugar & Spice






 「今日は、夜から降るんだっけ……」

 首元から滑り込んできた風が何時も以上に冷たい。
 誰にともなく呟くと、見上げた空は濃紺に染まりうっすらと靄が掛ったようで、星などビルの隙間にほんの欠片ほどしか見えない。
 こうやって天を仰ぐ度、自分が今何処に居るのか自覚する。
 けれど、ここは確かに自分が生まれ育った場所なのだ。
 その事が、ほっとするような少し寂しい様な、そんな複雑な気持ちにさせた。
 感傷に浸っている訳ではないけれど、1日の終わりにぼんやりと頭に浮かぶのは、何時だってそんな事だった。
 崩れたマフラーの結び目を直して、ちょうど赤のランプが点灯した交差点で足を止める。
 ぼんやりとその発光ダイオードを見るともなく眺めつつ、流れてゆく車を見送っている。

 今週はまだ一日残っているが、既に卒業試験を終え自由登校へと入っているのだから、こうやって制服を纏って朝から登校する必要は無い。
 しかし、あと数カ月もしないうちに卒業し別々の進路へと向かう友人から、出て来いと連絡が来れば致し方ないだろう。
 もう会う事もないだろうからと言って、不義理をするのも、後味が悪い。
 受験生なのだから、そうとも言っていられないのだけれど。
 ちょうど、教師にいくつか質問事項もあったことだし構わないかと、今朝はゆっくりと家を後にした。
 センター試験は、おそらく成功と言って良い程度の点数を確保出来た。けれども、それだけでは終われない。選抜に残れるかどうか、駄目なら駄目でまた次の備えもしなくてはならない。
 三月に合格通知を手にするまでは、気を抜いてはいられない。
 試験の日程は動きようも無く、本命と滑り止めの学校を2つほど。どれを取っても、もう時間的な余裕はなかった。 此方に戻り、また通い始めた高校はそれなりに進学高で通っている手前、難関大学への志望者も多い。生徒も教師も、そしてその保護者もピリピリとした空気を否応無く醸し出している。
 自らの志望は当然あるにせよ、良くも悪くも放任主義のうちの親はといえば、一生に一度の大学受験へ臨む心情を慮ってくれはするが、過度な期待を寄せられることもない。その点は、有りがたいのか張り合いが無いのかどう評していいのか分からない。
 伝えた志望校についても『そう言えば、成績よかったものね。受かったら自慢の息子ね』などと脱力するような言葉と共に、軽く了承された。
 いやにあっさりとしていたもので、担任や学年主任のギラギラした雰囲気にあてられていたのだなあと、少し胃に重いものを感じてしまったほどだ。

 しかし、今日はそんな世知辛い将来設計とは別の事で気分が晴れない。
 溜息が零れた。
 どうしてだかなんて事は、よくよく分かっている。

 
 今朝のこと。
 通勤ラッシュを避けて、午後を少し過ぎた頃に電車に乗り、登校した。
 一年生が体育の後の片付けをしているグラウンドを横切って、昇降口から自分のクラスへ。
 しかし、扉を開けた瞬間に今すぐに踵を返したくなった。
 教室に漂った異様な空気はどれだけ空気が読めない人間だろうとも察しただろう。
 あからさまだなあと思いもするし、普段受験だ偏差値だとそう言った事に無関心な振りをしているくせに、やはり結局は普通の高校生なのだと微笑ましい気持ちになりもする。
 なんだか、自分一人老獪な事を思っているようだが、勿論自分だって普通の高校生だった。
 当然の事に思い到って、切ない気持ちを味わう。
 まばらだが登校していたクラスメイトと言葉を交わして、不自然にならない程度に逃げるようにして図書室にでも行こうと扉を閉めたその直後に捕まった………。
 隣のクラスの、女生徒だった。
 不意に、今日呼び付けた友人の顔が浮かんだ。何もこんな日に、『英語が解らないから教えてくれ』などと言って来なくても良いだろうとも思ったが、この瞬間に繋がった―――。
(この子、そういえばあいつの幼馴染だとか言ってた気がする……)
 登校してくるかどうかも解らない自分を待ち伏せていた、なんて勝率の低い事をするだろうか……いや、彼と彼女が、昨日何かしらのやり取りをしていたとしたら?
 嵌められたとまで言えば、言葉は悪いが正直そんな事を思った。

「どうかした?」
「うん……あの、ね……あの!」 

 俯いたその顔を見る事は出来なかったけれど、ゆっくりと問う。
 しどろもどろに言葉を探して、けれどもそれを途中で諦め、実力行使とばかりに後ろ手に隠していた小さな紙袋ぐっと差し出される。
 チャコール地に、オレンジで何やら幾何学模様が描かれた上品なそれに視線を遣って、そしてもう一度彼女を見て。

―――そして、ゆっくりと口元に苦笑に近い笑みを刷いた。





 本日2月14日。

 言わずもがな、バレインタインデーであった。
 正直なところ、あまり考えたくは無かった事である。
 昨年、稲羽の八高でのこの日の事は覚えている。勿論。
 けれど一昨年は、はたしてどうだっただろうか。あまり記憶が無い……いや、確かインフルエンザで一週間伏せっていた。
 一生一度の高校デビューのバレンタインに、不憫な奴だと憐れまれた記憶がおぼろげにあるが、そのクラスメイトの顔も今一つ覚えていない。
 登校していたら、劇的な青春が待っていたかのようなその口ぶりには、とりあえず苦笑で返した様な気がするが……どうせ自分の事だ、十中八九その程度の反応だろう……今となっては、そんな人生を変える様なイベントは発生しなかっただろうと自信を持って言える。

「去年は……なぁ…」

 我ながら恨みがましい、というか女々しいというか。
 けれども、溜息の一つや二つ吐こうと言うものだ。平然としていられる方が、おかしいだろう?
 だって、去年は恋人が傍に居てくれたのだ。勿論、手作りのチョコを小さなその手にぎゅっと抱えて。
 
 あれから、ちょうど一年経った事になる。
 そして、稲羽から都内の自宅に戻って、もうすぐ一年が経とうとしていた。
 春に、戻った自宅。
 一年もの間留守にしていた自室のクローゼットを開けて、羽織ったブレザーの丈がほんの少し短かくなっていた事を、誇らしいと思った。ここで、彼女の隣に立つに相応しい自分になろうと決意した。
 した、が。
 けれど、それはそれとして、だ。
 やはり、こんな絶好の名目がある日は恋人の顔を見たい。
 自由登校期間なのだから、自分の方は会いに行く時間などどうにでもできた。
 電車を乗り継いでの小旅行になるが………しかし、彼女は受験前にそんな事を許してくれる様な子では無かったのだ。
 それはもう、きっちりと『大事な時期に、そんな時間を使わないでくださいね。体調でも崩したらどうするつもりなんですか?』と釘を刺されている。
 その時間で一問でも多く問題をこなせだとか、暗記ものを定着させろだとか、そういう拒否の仕方なら言いくるめる事も出来たが、体調を気遣う言葉を並べられるともう黙る他ない。
 まして、『時間の無駄、とか、あいたくない、だとかは嘘でも言えないんですけど』などと苦笑交じりで、囁くように言われてしまえば逆らえるだろうか?

(あ、まずい……もうこんな時間)
 歩きながら、腕時計に目をやると思わず声が出た。この時間には、家に居るはずだったのに。
 少し急がないと、まずい。
 今日両親は揃って八時ごろの帰宅だと聞いていた。今自宅は無人。
 宅配を受け取って欲しいと、時間帯の確認までしてきた彼女……彼女達の事を思うと今日受け取れなかったと言いたくは無い。
 夕飯の買い物に寄っている時間も惜しくなってきた。
 昨年海外から戻りはしたが、何かと留守がちな両親よりも自分の方が、家事をやる事は多かった。夕食等は基本的には早く帰れる自分が作っている。
 まだ携帯には何の連絡も無いから、おそらく家で食べるだろう。ぼんやりと、簡単な献立を考えながら慣れた道を歩く。
 冷蔵庫のなかを思い出しつつ、どうにかなるだろうと算段を付けてスーパーには寄らずに、真っ直ぐに自宅に戻ることを決めた時、ちょうど信号が青を点灯させた。


(野菜はあるし、鳥肉も、あとは……賞味期限ぎりぎりの牛乳の処理にシチューでも………え、―――は?) 

 それは、偶然だった。
 いや、偶然ではもちろんないのだろうが、こちらがそれを見つけたのは偶然だった、と思う。
 すっと滑らせた視線、交差点を渡り切ったその場所。
 大手チェーンの珈琲ショップのカウンターに、その姿を見つけて唖然とした。


「…………直斗?」

 外に向けて設えられたカウンター、そこに掛けた小柄なその姿。陽が落ちた今の時間、外からは煌々と照明が灯った店内が良く見えた。
 どんな雑踏の中でも、すぐに彼女を見つけられるだとか、ドラマのような台詞は流石に言えない。
 視線を流した先を、一度やり過ごして、そして引っ掛かりを覚えて、違和感を処理するのに少々……二度見した。
 二度見、どころでは無いくらいに見つめて。ようやっと、絞り出した声は疑問形で、胡乱な気配が一杯に詰まっていた。交差点の真ん中で、いったいどうしてこんな間抜けな顔を曝しているのか。
 店の隅にちょこんと腰かけて、頬杖をついている姿は珍しい。
 いつも持ち歩いている文庫を開きもせず、じっと外を……歩道を見つめている姿は、何かを探している。
 彼女が居る筈のない、この場所。
 自分の、自宅近くの、コーヒーショップ。駅から、自宅へは、まずこの通りを通る……。
 探して、くれている?
 希望的観測を抜きにしたって、それ以外の何があると言うのだろうか。
 はっとして走りだしたのは、点灯を始めた信号のせいではない―――。



「何やってるの?」
「あ………えっと…ぉ、おかえりなさい」

 自動ドアに手をかざして、開き切るのを待つ事すらもどかしく思いながら店内に飛び込むと、声を掛けてくる店員には見向きもせず真っ直ぐに、イートインスペースへと足を進めた。
 一つ息を吸って、そしてポツンと椅子に座る後ろ姿に声を掛ける。
 飛びあがらんばかりに、ビクリと震えた細い肩。どうせなら後ろから抱き締めてやるくらいの意趣返しをしたかったとは思うが、それなりに客の入りがある店内でそんな事をしようものなら、機嫌を損ねる可能性が高い。
 公衆の面前で痴話げんかも無いだろうし、こんな所で他人の視線を集めたくもない。
 
「俺には、来ちゃだめだって釘刺したくせに」
「すいません」

 隣の席に置いていたコートとバッグを自分の膝に乗せて、彼女が空けてくれた隣の席。椅子を更に彼女の方に寄せて、マフラーを椅子の背に掛けると鞄も置いて、浅く腰を下ろした。
 声には恨みがましい様な、拗ねたような響きも籠ったが、どうしたって喜色は隠せない。
 それを感じ取ったのか、恥ずかし気に俯いて苦笑を零す姿。別に怒ってなんかないよ、と告げると、また同じように彼女は頷いた。
 会いたかったに決まっている。
 この瞬間に目の前になんか現れるものだから、幻覚まで見るほどまでなのかと、自分を哀れむくらいには重症だという自覚もあった。
 
「本当は、僕も我慢するつもりだったんですよ?」
「それなのに、今ここに居るって事は名探偵は俺よりも堪え性が無いの?」
「えっ、……ええ?えっと、そうじゃない、とは言えませんけど、うー、ん」
「うん?」
「りせちゃんが午前中、学校に来てたんですけど……午後から東京に戻るって言って」
「それで、拉致されたんだ?」

 ふーん……。頬杖をついて、ちらりと視線をくれてやる仕草を大げさに見せ付ける。
 眉尻を下げて、ほとほと困った表情を作る恋人は非常に可愛い。

「もう、お手上げです。そんな意地悪な事言わないでください」

 彼女はそう言って、半分ほどにしか減っていないマグカップを乱暴に手ると、口元を隠すように冷え切った珈琲を口に含む。
 むぅと膨れた頬を指先で突きたい衝動に駆られはしたものの、意地の悪い事を言ったせいか目が少し拗ねた。
 
「確かに、りせちゃんに手を引かれて学校抜けてきましたけど、提案は彼女でも勿論自主的に付いてきました!5分で着替えてきてなんて言われて、洋服なんか選びようが無くて結局何時もの私服ですし、そもそも会えるかどうかも解らないし、まったくのノープランで此処に居ました……結果的に見つけて貰ったわけですけど。いけませんか?」

『折角名目有るのに、会いに行かないとか勿体ないよ!来ちゃダメとは言ったけど、「行かない」とは言って無いんでしょ!』
 ぽつりぽつりと、りせに言われた言葉を教えてくれる。
 なるほど、魅力的な誘い文句だ。
 直斗が使いそうな屁理屈ではない。思っていた通り、りせの言いそうなことだが、至極御尤もである。
 なんて愛おしいのだろう。
 いけないなんて、あるはずがない。嬉しく無かったなんてそんな事がある訳が無い。
 昼に稲羽を出たのなら、ここで待っていた時間も一時間を数えない程度だろう。彼女達からチョコが宅配されてくるのは、万が一出掛ける用事があった時の為に今日の夜の時間を指定してもらった。
 宅配手配をしたのは彼女だろうから、その時間には戻るだろう事を予測はしていただろう。
 けれど、帰宅を待っていたと言うのなら、留守はもう確かめてきていると言う事だ。
 例の電話を受けた時に、「万が一自分が出掛けていても、夜なら家族が居る」と伝えたから日中は自分一人だと言うことを織り込み済みだろう事も察する。
 惜しい事をした、心底思う。
 良くも呼び出しなんかしてくれたものである。
 あの友人に対しては、そのうち……卒業までには何か意趣返しをさせて貰う事にする。


「うん、ごめん。ありがとう、俺も逢いたかったから嬉しいよ」

 凄くうれしい。偽り無い素直な言葉を告げて、そっと頭に触れればはにかんだ様に頷いてくれる。
 電話やメールはしていたけれど、こうやって会えるのは久々だった。拗ねた顔も可愛いと思うし、むくれたこの少女のご機嫌をあれこれと伺うのも、嫌いではないがどうせなら、やはり笑って欲しい。

「温かいもの飲もうか?」
「あ、……。あの、実家に戻る事も出来ますけど、今日は終電で稲羽まで帰ろうと思ってます………」
「うちに来てもいいよ?……ぃって。わかってるよ、明日も学校あるもんな」

 強かに叩かれた腕を大仰にさすりながら、一応物分かりの良い彼氏の振りをする。
 離れ難いのはお互い様だと解っている。
 遠距離恋愛なんて面倒な事を始めてしまったのだから、欲は数限りなく溢れてくる。けれど、結局自分たちがどうこうできることはあまりにも少なくて、解りきったうえで更に己の無力を嘆いたところで、今のところ何一つ得られるものが無い。 

「もう、何言ってるんですか!そもそも、受験生こんな所で引きとめるのも良くないんですから。ちゃんとリミット決めておかないと」

 帰れなくなります。
 最後の言葉は、声にはならなかったけれど聞かなくとも解った。
 例えば、今自分が一人暮らしをしていたりしたら、有無を言わさず連れ帰っただろう。高校生の身分でこれを言うのは分不相応だろうが、ふと思う。親と同居……良いんだか悪いんだか。
 ……いや、良いのだろう。この場合は。彼女の為には。
 食事くらい誘う事はできたが今日の終電で、稲羽まで戻るならあと40分もしないうちに店を出て駅まで送らなければ間に合わない。

「そもそも、先輩の御両親に会う心の準備なんかまったく出来てないんですから。連れて行かれたりしたら、僕心臓止めますからね!」

 普段、読心術でも体得してるんですか?と聞いてくるのは彼女だが、今回ばかりは良い所を付いてくる。
 言葉を返す事はせずに曖昧に笑って、彼女がずっと両手で持ったままだったカップを取り上げた。




 

 
「でも、ちょっと安心しました」

 リククエストのショートサイズのブラックコーヒーに、電車の中では満足な夕食も取れないだろうとミネストローネとハムと卵のサンドイッチを付けてトレイに乗せて渡すと、彼女はありがとうございますと言って、お行儀よく手を合わせた。
 自分も彼女に倣って、珈琲に口を付ける。
 本当は、一つ奥の通りの店のデリカの方が美味しいのだけれど、移動する時間が惜しかった。
 一口卵サンドを齧って良く咀嚼した後、思い出したようにぽつりと零す。

「なにが?」
「何がって………」
 
 また、へにゃりと困ったように下がった眉尻。いぶかしんで、そして、彼女が言葉を探している間に、閃いた。
 態度には、出さない。しかし、なんというか、自分とした事が今日は非常に察しが悪いなと内心、苦い思いをしている。
 
「彼女が居るのに、チョコなんか貰わないよ。欲しいとも思わないし。あ、あいつらと菜々子は除外させてね」
「皆さんからの取りまとめて宅配手配したの、僕ですよ?だいたい、そこまで狭量じゃありません!」
「うん。……まあ、大きな心で『案外もてないんですね』とか言われちゃうとそれも寂しいけど」
「え?そこまではちょっと。そんな事、僕には到底言えませんけど……。なんです、不特定多数にもてたいんですか?もう、充分だと思いますよ」
「そりゃあ、彼女がいれば十分だよ。そうじゃないくて、不特定多数とかそんなものいらないけど。誰からも見向きもされない様な枯れた彼氏じゃ、君に申し訳ないとは思う」
「僕に対してハードル上げるのやめてくださいって……」
「直斗は俺にだけモテててください」
「その言葉はそっくりそのままお返しします」

 正直。
 良い気分だ。
 リップサービスでも無く、勿論自分は本心からの言葉であったけれど、ここで『そっくりそのまま返す』などと言われると、何の事の無い言葉の応酬でも頬が緩む。
 至極満足気に笑うと、流石に気付いたのだろう。呆れた雰囲気を隠そうともせずに彼女は息を吐いた。
 頬が赤いから、彼女も悪い気はしていないだろうと解るから、反省などする必要も無い。

「ほんとうは」
「うん?」
「そもそも会えるかどうかも解らなかったし。それに、見つけられても腕に抱えられないくらいチョコを持って戻ってらっしゃったら、どうしようか、とか……ちょっと考えました。ごめんなさい……」
「それは、怒っても良いと思うよ?」
「そうでしょうか?不可抗力とか、円滑な人間関係保持のためには必要な事だってあるんですから、例えばいきなりひっぱたくとかはできないでしょう?」
「激しいね……いや、待って。俺まだ、高校生だよ?学生の甘酸っぱいイベントに、そんな社会的儀礼みたいなの求められても……とりあえず、本命から心がこもったもの貰えれば、このイベントは満足だから」
「じゃあ、その点だけはクリアですね。言いましたけど、今年は皆さんからのも、僕からのも市販品なんです。宅配にしましたし、受験生に万が一の事って思うと、手作りは渡しづらくて……」
「不意打ちで会いにまで来てくれたんだから、おつりがくるくらいだけどね。ホワイトデーどうしようかな」
「追い打ち掛ける訳じゃないんですけど、そんな事考える暇を、受験にあてていただきたいのが本音です」
「そりゃあ、勿論。君を言い訳になんかしたくないからね。でも、吉報持って会いに行けたらいいなとは、思うよ」
「じゃあ、待ってますね」
「うん」

 珍しく、本当に珍しく。
 こんな公衆の面前でこてんと、首を肩に預けて僅かな時間だけ甘えてくる恋人。
 自分も、今この時間を一秒だって無駄にしたく無くて、仄かに甘い香りがする髪にそっと頬を寄せた。
 触れ合っていたのは、本当に僅かな時間。
 お互いに見ない様にしていたのに、リミットはあっと言う間にやってきた。
 不意に……硝子越しに歩道を見やってから、一瞬息を詰めて、そしてゆっくりと吐きだした。

「………あっ………」
「いいの?」
「良い……いえ。よくは、ありません」

 不意に、彼女のバッグの中で、携帯のバイブレーションが振動する気配。
 苦い顔を見るに、おそらくは着信では無くアラームだ。そろそろ、店を出なければ終電に間に合わなくなってしまう。
 稲羽に付く頃には、日付の変わった真夜中。
 田舎のため、客待ちをしているタクシーもタイミングが悪ければいない。否、そもそも、彼女が借りているマンションは、駅からそれほど離れている訳でも無いから、歩いて帰宅してしまう可能性が非常に高い。
 同じく受験生ではあるが、親友とそれから彼の家に絶賛不定期居候中のクマに連絡でも取ろうか……。
 こんな時、とてももどかしい。
 顔を見たら、話したい事、聞きたい事はたくさんあったはずなのに、結局は他愛ないやり取りだけ。
 そんなものだろうし、それが幸福だと思うけれど、どうしたって物足りないと感じる。

「ちょっと、すいません」

 いいよ、と促すと彼女はバッグの中から携帯を取り出してアラームを解除する。
 幾らごねた所で、時間はどうにもできない。帰り支度を促して、自分はお互い半分も手を付けられなかったカップを片付ける。
 立ちあがって、カウンター近くまでトレイを返してくると身体を捻って、スマートフォンを構えている恋人と目があった。
 何事かと首を傾げる―――と。

「旅先の恥はかき捨てなんです!」
「…………は」

 嫌に真剣なまなざしを向けられて、言い聞かせるように……この場合はおそらく彼女自身に……呟いた後、耳に届いたのは耳慣れたシャッター音。

「目的は全て達成しました」
「盗撮ですか白鐘さん」
「盗撮ならもっとうまくやります。それはあまりにもマナー違反かなと思って事後承諾です」
「そんなにブレザー珍しい?あ、あ……そうか、これであった事は無かったかな」
「僕にとっては貴重な一枚ですよ。ホワイトデーこれで良いくらいです」
「お手軽だなぁ」

 そういえば、今は通っている学校のブレザーを着ている。
 学ランとは違う、ネクタイとジャケット。写真にまで収められて、そんな事を言われてしまうと、落ち着かなくなる。
 クリスマスに、セーラー服を着て見せてくれた彼女もこんな思いを……いや、ありったけの勇気を振り絞ってくれたのだろうと言う事は良く分かっているつもりだが。
 恋人に、自分の写真を欲しいと言われれば勿論嬉しいけれど事後承諾も何も、彼女はさっとバッグにスマートフォンを仕舞い込む。少し赤くした頬をそのままに、にこりと微笑まれてしまうと何も言えない。
 というか、こちらが恥ずかしくなってくる。
 最近、こんな風に自分を黙らせる術を彼女は身につけてきたから、少し危機感がある――。




「やっぱり、冷えますね」
「今晩、少し降るかも知れないって言ってたから。雪になる前に電車乗らないとね。行こう」

 店を一歩出ると、風の冷たさに身をすくませた。
 ちょうど青いランプが点灯したばかりの横断歩道は、電子仕掛けのカッコウが情緒も無く鳴いている。
 隣の小さな手を取ると、彼女が付いて来れる程度の早足で駅へと急ぐ。ぎゅっと握り返された手は、やわらかくて温かい。このまま、何処かに行ってしまえればいいなんて、そんな事を言ってみたら、彼女はきっと『試験前の逃避のお付き合いはしません!』とでも言うのだろう。
 
「あの、何やってるんです?」
「東京か、時間によっては新宿の方が早いか。電車の中で検索しよう」
「え、ええ……いや。ダメですよ先輩、あなたは早く戻らないと。というか、宅急便の指定時間もうすぐなんですから、戻ってちゃんと僕たちからのチョコレート受け取ってください。明日でいいなんて、情緒の無い事言いませんよね?」
「大丈夫だよ、父親が戻ってるから。受け取ってくれる」
「……もう。一緒に居られるのは、そりゃあ嬉しいですけど。余計いけませんよ、受験生が、遅く……は、ありませんけど夜出歩いてちゃ」
「直斗電車乗せたら、ちゃんとまっすぐ帰るし、女の子一人で帰す方がうちはうるさく言うよ。どうせひやかされるなら、早く帰って振られただのなんだの失礼な事言われるより、遅く戻って上手くいってるところアピールしとくさ」
「え、なんです?いつも女の子と遊んでる息子さんなんですか?聞き捨てならないですよ」
「まさか!叔父さんがなんか口滑らせたみたいだから、稲羽に彼女いるの知ってるよ。その子が、バレンタインにわざわざ来てくれてるんだから、良好そうで何よりなんて顔してくれて………。ちょっかい掛けてこなかっただけ弁えてて良かったと安心してる」
「そうですか、それ………は?」
「歳甲斐も無く、往来でウインクなんて寄こすおじさんで大変恥ずかしい」
「何の話ですか!!」
「夜だし、外からは良く店内が見えただろうね」
「いっ……いつですか!!?」
「ん、イチャイチャしてる時?」
「――――――っ!?」

 俺も、直斗の姿良く見えた事だし。
 そう付け加えると、赤くなった次の瞬間、真っ青に立ちつくした恋人。
 彼女とはすぐに、この繋いだ手を離して離れ離れ。
 けれど、今年のバレンタインもやっぱりいい日だったと口元に笑みを刷く。
 今にも、くずおれそうな恋人を短時間でどう立ち直らせたものかとは思案する。足元が覚束ないまでにダメージを受けるとは思わなかったから、もしかしたら黙っていた方が良かったのかもしれないけれど。

 ………。
 しかし。
 まあ、もう暫く触れていられるのならば、結果オーライということにしてもらおうと思い直すと、彼は言葉も無い恋人を、抱きかかえるようにして駅の改札を潜った。






 遅刻して上げたバレンタイン。
 バックボーンはホントに謎な主人公です……

 以下、ちょっとおまけ

 ◆こぼれたおはなし