「ほんとに、ずるいよなあ……」
 
 直斗を駅のホームで電車に乗り込むまで見送り、拭いようの無い寂しさを振りきる様に早足で帰宅すると、キッチンには父親がいた。
 自分の事でも無いくせに、嫌に楽しそうに笑っている姿にこちらから言える言葉は何も無い。
 リビングのテーブルを指されて振り返ると、そこには小さな箱が乗っていた。
 見慣れた恋人の文字で、自分の住所と名が綴られていて思わず顔がほころぶ。
 ……背後の視線がうるさいったらないが……。
 それを大事に抱えて、そして見下ろすテーブルの脇。白い紙袋。
 それも、特大の……最近はあまり見かけなくなった結婚式の引き出物でも入っていそうな紙袋が、どっしりと存在感たっぷりに置かれていた。

(結婚して、落ち着くとこうなるか………)

 毎年の事ではあれど、学習した気持ちになる。
 が、自分の恋人はこうは成らないんじゃないかとも思ったりする。
『うちの旦那は、案外もてない』
 この紙袋が小さいと、母親は容赦なく言い放つのである。
 稲羽に行って一年居候していた、堂島家。一年、保護者となってくれていた叔父。これまでは、それほど交流があった訳では無かったから、あの人の弟が、あんな人だと知って相当に驚いたものだ。
 着替えてくると言い置いて、自室に戻ると机の上に抱えていた箱を下ろす。
 伝票を剥がして、彼女の性格が良く表れた几帳面に張られたガムテープにカッターの刃を走らせると、更に緩衝材が詰められていて、市販のものだとは言っていたが、仲間たちそれぞれから彼女達の個性がにじみ出た、綺麗に包装されたチョコレートがお行儀よく並んでいた。
 菜々子だけは、学校の調理実習で作ってそして何度も練習したというカップケーキを送ってくれた。
 少し、ふくらみが不格好だったが一生懸命に作ってくれたのだろうと思うと微笑ましい。
 昨年、居並ぶ女性陣からいかんともしがたいアドバイスを受け、そしてそれを真に受けた従妹が、自分の為に作ってくれたチョコを思い出すに、戦々恐々としていた。
 しかし、あの最終兵器のことを直接具体的には口にしないものの、女性陣が菜々子に吹き込んだ……いや、アドバイスした隠し味の事を少し話した恋人は、しっかりと覚えていてくれたらしく一緒に作ってくれたという。
 手作りは無し、とは言われたものの可愛い妹と、そして恋人の合作だと思えば顔がほころぶ。
 雪子、千枝、そしてりせからのチョコは、連名で買ってしまおうかという案もあったようだが、どうやらりせが『数があった方が、花村先輩とかは喜ぶよ?』とかなり的確な事を言い放った為に、棄却されたと先ほど聞いた。
 このイベントに情熱を燃やす親友には、さすがに言えない裏情報だった。
 仲間内で唯一恋人のいる直斗は、このイベントは免除……という流れになりかけたらしいが、今の御時世そもいないだろうと、今年は直斗もいわゆる『御世話になっている人に』という初義理チョコに参加したらしい。
 気の置け無い仲間たちでは有るけれど、自分以外の男にも渡したと言われると、少しは面白く無いと思いもするけれど。近くに居ない分、余計に………。ただ、自分は女性陣から貰っているのだし、そんな事言える筈もない。
 彼女が嫌だと、気にする素振りでも見せたら、幾ら雪子や千枝、りせからでも断るつもりだったけれど、幸いなのか、少し残念なのか、そういう素振りを見せた事は無い。
 不安な思いなどさせていない。とは、言えないけれど、不必要に勘ぐる必要も無いことを思い悩んだりさせてはいないのだな、と思うとホッとした気持ちと残念に思う気持ちがまじりあう。
 
彼女の義理チョコについては本人から、『今年は皆さんにも渡してみようと思います』と連絡を受けた.
文句など付けるつもりは、勿論ない。……去年、他の女の子たちは仲間内には全員チョコを配ったと後から聞いて、気にしていたようだったし。
 その事を知っている身としては、生れてはじめてこのてのイベント事に乗り気の彼女に、言える事など精々『手作り渡すのは俺だけにしてね』程度の、かわいい独占欲の主張。
 女性陣達とは、恒例となりつつある交換会を盛大に開催するのだろうが、所謂女子会にまで首を突っ込むほどバカな男ではないつもりなのだ。

「少し、スープくらいは食べてこようかな」
 その後、濃いコーヒーでも入れてゆっくりと戴く事にしよう。
 できれば今日中に皆にメールを入れておきたい。あと、それよりも先に菜々子が眠ってしまう前に堂島家に電話もしよう。
 その後は、テキストでも捲りながら自宅に着いたら何時でもいいから電話をくれと伝えた恋人からの着信を待てばいい。
 梱包材だけ、ゴミ箱に詰めると一度小さな箱を閉じた。
 着替えようと、クローゼットへと向かおうと身体を捻って……けれど、その前に、彼女達から送られてきた箱の横。
 今朝、自分が置いて出掛けたクラフトの包みをそっと開いた。
 中には個包装されて、ブルーのリボンで口を閉じられた小ぶりなガトーガナッシュが5つ。
 オレンジピールと、ヘーゼルナッツを砕いて練り込んである。甘さは、少し控えめのビター。
 味も形も、まずまずの出来だ。確認済みなのである。
 朝、自分で作ったものなのだから。 

「渡したら、良かったかな……取りに戻れなかった訳じゃないけど。でも、直斗ならもう少し甘めの方が好きだろうし」

 去年から、本当は自分も彼女に渡す甘い菓子を用意していた。
 渡せなかったのは、あんなに必死に、自分の為にチョコレートを用意してくれた彼女に、やはり今日と言う日は女の子の為の日なのだと思ってしまったからだ。
 普段から色々とうんちくを傾ける彼女のことだから、日本のバレンタインの特異性について何かしら思う所があったりするのではないかと、内心構えていた。
 女性から貰う事を当然という姿勢は、彼女的にはどうなのだろうと、ふと気付いたのはスキー旅行前日の事だった。
 けれども、あんなに懸命に、『日本の製菓会社の陰謀』と呼び名の高いイベントに参加する姿勢を見せられると、あまり気障な事などせずに黙って受け取って高校生らしい幸福を享受しようと思った。
 それを、どうして今年もまた、こんな寂しくも食べてほしいと思う人に手渡す予定の無いものを独り作ったのか。
 それは、荒みそうになる心を慰撫する為、というか手っ取り早くイベントの雰囲気を独り満喫して、そしてまた独りで黙々と腹に収めて、彼女を想うバレンタインを独り演出すると言う、お受験で気でも狂ったのだろうかという哀しい思いつきだった。
 
(結局、今年もバレンタイン満喫してしまったけれど………)

 どうして、こんなものを用意していたのか彼女に問われたら今日は上手く誤魔化す自信が無かったから、だから渡せなかったのかと思い到る。
 例えば、両親の為にだとかそんな風に言うのは嫌だった。
 間違いなく彼女に食べてほしいと思って作っていたし、それを他人の口に入れさせるつもりも無い。
 だから、結局は自分で片付けるしかない。
 幸い、数日は日持ちするだろうし数もそれほど作ってはいない。

「ホント……ホワイトデーは、どうしようかな」
 
 思い出すのは、先ほど別れたばかりの恋人の顔。
 時折、こちらに向けて何か言いたげな目をしていた事には気付いていた。
 『どうしたの?』と問う事は簡単だけれど、彼女が自ずから口を開くのを今回は待とうと思った。少し無神経くらいでもいい、敏過ぎるのは、逆に嫌われるだとかそんな事を言われたからではないけれど。
 受験については彼女の方が神経質すぎるほど気にしてくれていた。自分としてはツライとか、シンドイとか、軽く鬱っぽいだとか、その辺りのピークはもう去年に置いてきている。
 詰めの甘い部分だって有るにはあるけれど、今更参考書全冊全て一字一句余さず読み込む程の余裕も無いわけだから、効率重視で頻出問題を見直しながら体調に気を付ける程度の気持ちでいる。
 本人は既に開き直っているのだけれど、彼女はやはりこんな状況の恋人に気遣われる自分と言うものに、また自己嫌悪するのかな……などと思うと、問いただす事はせずに自分から話してくれるまで待とうと思った。
 その為に、もう少し身辺に余裕を作りたいと息を吐く。
 自分には、まだまだいろいろなものが足りないのだと、思い知る度にこなすべき事も乗り越えなければならない事も、山と積まれてゆく。長期計画ではあるけれど、多少の大志は持っておいたほうが良いじゃないか。
(………さて、と)
 ホワイトデー。
 彼女に会いに行ける絶好の名目が与えられている。この日までには、自由の身になっていたいなぁと切実に思う。
 元々の凝り性が幸いして、彼女の菓子作りの腕はみるみるうちに上達したけれど自分も案外できるのだと言う事を、何時かお目に掛けたい。
 あの、何時も冷静で淡泊な反応をする少女がむくれる顔も、実は結構好きなのだ――。
 彼氏の特権だろう。

 ゆっくりと考えよう。
 ふっと口元をゆるめて、彼は今度こそクローゼットへ向かう為にその包みを、大事にそっと仕舞った。
 



はたして、彼は無事にホワイトデーを迎えられたのか!!?