San Valentino
その日、クロームは少しばかり困っていた。
「さあ、覚えておくのよ?これが愛の……」
眼に痛いピンク色の小瓶を手にした美しい魔女…いや、女性が煌々とした表情で自分に話しかけるというわけでもなく呟いている。
「いい?この試薬と、薬草と、それからあとこれも入れてみましょうか?」
「うん」
クリーム色の明るいキッチンの中、調理に必要なものなのか怪しい、どちらかというと何かしらの科学実験に使われるのではないだろうかと思われる瓶などが並んでいる。
その魔女……もとい、ビアンキは一つずつ指をさして、木の踏み台で上げ底をしてテーブルを覗きこむ子供に説明をしてゆく。
その全てを理解している訳ではもちろんないが、幼子は素直に返事をするので彼女の勢いも止まらない。
その日はもうすぐ近くに迫ってきていた。
サン・ヴァレンティーノ。
日本では、ヴァレンタインデーというあれだ。
近頃の幼稚園児というのはなかなかに早熟である。こと女の子というのは、幼いころから、幼くとも女性なのであって勿論クロームもそのイベントを、日本での意味をちゃんと理解していた。
ヴァレンタイン。
そう、それは女の子が好きな人にチョコレートを渡す日なのだ!
―――コンコンッ
「ビアンキ、クロームもいる?」
「ボス!」
「男子禁制よ!」
飴色の光沢を放つ扉が鳴った。
そこから顔を覗かせた青年にクロームが明るく笑う。
最近この子はよく笑うようになった、と紅いルージュの鮮やかな形のよい唇に弧を描きながら、しかしビアンキは片手に毒々しい色のショートケーキを手にして言い放った。
「ちょっ!?待て、待って子供の前だから!」
「なんだかその言い回し、気に入らないわ。そういう事はあんたの旦那に言いなさ……そうね、ツナ、あなたならまあ、いいわ」
どういう意味でいいのかはまだ一応、男を捨ててはいない綱吉は聞きたくはない。
それよりも、だ。
「クローム、おいで。俺とお出かけしよう?」
「?」
「なあに、女の決戦の日を邪魔しようっていうの?」
「いやいやいや。ビアンキ、お前はこれから大人の女の決戦のための準備をしてくれ!それはまだ園児にはまだ早いから、な?」
いつものスーツ姿ではなく、オレンジのハイネックにジーンズ。手にはチャコールのダッフルというラフな格好の綱吉の姿。「お出かけしよう」の言葉に反応したクロームに、ビアンキは小麦粉で真っ白の小さな手を見やって一度ちゃんと手を洗うように言うと、乗っていた踏み台からおろしてやった。
「もう少し大きくなったらステップアップした講義をしてあげるわ」
「ありがとう」
ピンク色の小さなエプロンのリボンを解いて、小さな肩を押すと見上げるビアンキに向けて笑って駆け出した。
「クローム、何かほしいものある?」
「んーん。ボスが、お買いものなんでしょう?」
「ちょっとね、じゃあ俺の用事からお付合い願おうかな」
「うん!」
細心の注意を払いながらハンドルを握る綱吉は、後部座席につけたチャイルドシートにミラー越しに声を掛けた。
万が一もないだろうが、あまり近場で見知った顔に会うのも嫌なので小一時間のドライブになりそうだ。少し長く車乗るけど、大丈夫?と問うと元気よく「うん」と頷く姿に笑みを深くする、内向的な性格ではあるものの一緒に出かけようと誘うと嬉しそうに笑ってくれる。
普段から一緒にいる時間がもっと取れればいいのだけれど、と内心苦い息を吐くと、綱吉は幹線の地図を頭に思い浮かべ、ハンドルを切った。
時間はまだランチの前のお茶の時間にも達していない。いろいろ揃えられなおかつ、食事もできて遊べる場所と、もう何度か足を運んでいるショッピングモールへと向かおう。
少し遠いけれど、ドライブも楽しいだろう。
鼻歌交じりに行き先を告げると、はーいとよいお返事が帰ってきた。
「………ねえ、ボス!ボスのお買いもの、ってこれ?」
「うん。そうだよ、今日ビアンキと何か作ってたし、クロームもしってるよね?」
大きな瞳をまんまるにしている幼い姿に笑みを深くしながら、綱吉は繋いだ手をそっと引いてフロアーの一角に設けられたコーナーへ足を踏み入れた。
「うん。あのね、俺もこの国にきて…クロームくらいの年のころは俺も日本にいたからね。それから知ったんだけど、イタリアでは恋人同士でプレゼントを交換し合ったりするんだって」
男性が女性に花束を贈ったり、そういう事がセオリーなんだそうだ。そこいらの花屋でやたらと赤い薔薇が入荷する日、それが2月14日なのである。
宗教行事の臭いも漂うのだが、流石イタリア、イタリア男は何があっても忘れてはならない愛の日である。
因みに、ビアンキが燃えているのは女の子が公然と愛の告白ができる、とそういう日本のイベントを都合よく取りいれたためである。
常日頃から派手な愛情表現を誰にはばかることもないのに。まだ、たりないのか―――
かくいう綱吉も、そんな便乗解釈的なイベント事としてやっているので、人のことは言えばい。
「チョコレート贈る、ってのも固定観念は日本だけみたいだったしね…って、それは、おいといてだよ」
「ん?」
「日本じゃ恋人とか夫婦どうしじゃなくても、お世話になった人にも渡したりするでしょ?」
女の子どうしなら、友チョコとかいうのも存在するらしい、が。
所謂、義理チョコと言うやつである。ちなみに「はい、ボス!ぎりちょこ!!」などと言って手渡されれば最後、立ち直れないのを自覚しているのでそんな言葉は教えない。
「っちょっと、ちょっと―――!!大変です、大変なことに気付きました」
『どうかし……なに?』
「どうしましょう?お、俺…どうしましょう!!?クロームから本命チョコとかもらったらどうしましょう!!?」
『……………』
「ちょっと!?あんた、聞いてんですか?仮にもまわりまわって俺たちの仲の存続問題なんですよ!!」
『………君がもらうとは限らないでしょ。僕かもしれないし』
「―――――――――――――――――!!!!?なんて事言うんですか!やっぱり、俺より女の子の方がいいんだ!」
『可愛さでいうなら、最近生意気になってきた君よりずっとあるよね』
「なんて言いました?!今何て言いました――――」
―――不毛だな…。
哀しい哀しいこの状況に気づいたのは、空が白々と明けてきた気配を感じ取った雲雀の方が早かった。
非常回線で繋がった電話を、ワンコールも鳴り終わらないうちに取ったのは真夜中。
香港から並盛へと帰って、たまっていた別件の報告書に目を通して漸く寝室に引き上げたその時だった。思っていたよりは早く終わったそれらに、今日は十分に睡眠がとれそうだと考えていたのに、である。
……ぁ、朝だ…
呟いた雲雀の声。
暫しの沈黙、その後。
「すいません。少しくらいは眠ってくださいね、それからちゃんと食事取ってくださいね?それじゃまた、おやすみなさい。愛してます」
あれだけハッスルした後によくもそんな優しげな声が出せたもんだなと、そんな柔らかい声で言うと綱吉は受話器を置いた。
マフィアのボス、思ったよりも暇な職業なんだと思った雲雀は間違ってはいない。
その後草壁から連絡があるまで、遠距離で夫婦喧嘩をした場合のメリットとデメリットを真面目に考え込んだ、というのは綱吉は預かり知らないことである。
「ボス?」
「ん…、ああごめん。ちょっと考え事してた……」
ほんの数秒の間に娘をもった父親の心境になったり、夫婦喧嘩のリプレイをしたり忙しなく動いていた脳の回路をつなぎなおす。
違う。そう、違う義理の反対語は本命ではない、ないはずだ!!(…どうかな)
「えーっと、ね、だからね?日頃お世話になってる人にね、って言っても守護者くらい近い人たちだけだけど、毎年チョコレート配ってるんだよ。今年は作るの、クロームも手伝ってくれる?」
「――――うん!」
瞳を大きく見開いて暫く驚いて見せた顔が、すぐに満面の喜色に彩られる。
豊かになった表情に満足そうにうなずいて、綱吉は手にした買い物カゴの中に製菓用品を入れ始めた。
手のかかるものに手を出すつもりはない。その昔、まあ…今はどうにも廃れた職業とやさぐれた性格になってしまったが若かりし頃は、微笑ましい恋愛をしていたわけだ。いや、勿論今の相手と、であるが。
その頃、今よりも可愛げのなかった相手に理不尽に請われて作り始めたのが最初。それを期に日頃お世話になってるからと、周りにも渡したのだった。
もう結構な年月になる。
チョコケーキにフォンダンショコラ、生チョコに…毎年メモしてきたレシピはノート一冊分をこえた。
(まずは、トリュフ辺りでいいかな…)
彼女とでも作れる簡単なものを考えながら、次はラッピング用品の買い出しへと足を進めた。
「―――はい、もしもし。おはようございます」
『おはよう、こっちはもう夕方だけどね。さっき届いたよ』
「それはよかったです、少し天気荒れたようなので今日中に届くか不安だったんですけど。こちらは朝食の後、朝一できましたよ」
『うん。思ったよりも綺麗にできてた、美味しかったよって言っといて』
「…後半の言葉だけ伝えときます」
『いや、前半はガトーガナッシュのこと』
「それ、俺オンリーからですよ!ちくしょー。悔しいから面白い話は教えてあげません」
『へぇ……』
「骸へは板チョコです。まあ、ナッツとかいろいろ入れてますけど板チョコです両手の平にのってちょっと余るくらいのサイズです、ハート形の型に流し込んで固めて上からチョコペンでメッセージ入りです」
『興味深いね』
「どこからどうやって食べたって、割れます」
――――要約すると、食べても食べなくても『この子の真心を何だと思ってるんだ』といたぶる気満々なのだ
「はい。それじゃ…また」
綱吉は受話器を置くと時計を見た。
時間は9時を少しばかり回ったところ。匣を模した小さな四角いラッピングのチョコを守護者の面々やリボーン、ビアンキといったメンバーに彼女と渡しに行く約束をしている。
骸たちには宅配の手配をしておいた。昼過ぎには帰ってくるような予感がする。
「…ボス」
「入っておいで――」
ノックが響き薄く開いた扉に声を掛けた。ひょっこりと某パイナップルとお揃いに結っている髪が揺れる。あの男とはなぜこうも印象が違うのか。
綱吉の私的なリヴィングではあるが、彼女の出入りは何の制限もしていない。未だに入室時には逡巡する彼女に苦笑する。
「あのね、これ…」
「ココア…ホットチョコレート?」
とことこと、毛足の長いカーペットに軽い足音を吸いこまれながら歩いてくるその手の中には薄桃色のマグカップ。
はい、と何やら不安げな色を瞳に乗せて差し出された。
「あのね…あのね……一緒に作ったでしょ、骸様とかヒバリさんおかーさんのとか一緒に作ったでしょ」
でもね、と声をしぼませる姿。綱吉は、ああ、そうかと目を細めた。
優しい子はチョコレートを丸めながら、その数を数えて「ボスのは?」と聞いてきた。その度に「いいんだよ。これで充分」と答えて、味見用に作ったトリュフを二人でつついた。けれど、気にしていたのだろう。
「ありがとう。嬉しいよ」
小さな手のひらから暖かいカップをそっと受け取る。
口を付けると甘く優しい味が広がって、自然に頬が緩んだ。
美味しいよ、と言うとまだ不安そうにしている瞳が漸くはにかんだ様に細められた。この表情が一番好きだと、皆が思ってる。
自分の横に座らせると、彼女とは反対側に置いていた白い紙袋の中を探った。
そっとその中から綱吉の掌にちょうどのる程の箱を取り出すと、ちょこんとローテーブルに置いた。
「こっちは俺から」
中には、雲雀に送ったものよりも甘味を加えたガトーガナッシュ。
金色のリボンを解いて、そっと中身を覗き見た彼女の歓声が嬉しい。
「こっちは、ヒバリさんからね?」
「――おほしさま!」
昔の自分の反応を見ているようで苦笑した。
丸い瓶に詰め込まれた色とりどりの星。
朝の光に透かし見る姿が微笑ましくて、今は遠い国の送り主に持っていかれてしまったなと思いつつそっと小さな頭を撫でた。
ガナッシュの上に金平糖をころがして。
さあ、少し早目のお茶にしよう―――?
激烈に甘いと思うんだけどね、うん。
またそんな落とし方?
ごめんね、骸。愛はあるんだよ?