われは知る、わが購い主は生きたもう




その声は、確かに届いている……――






じんわりとぬめった液体が地面に広がってゆくのを、落とした視線の隅で見た。
自分とした事が随分とぬかったなと思うが、それよりも「お前は紅い血が流れていないのではないか」などと言われた言葉が脳裏をかすめた。
SF映画じゃあるまいし、誰にどれだけ怪訝な顔をされたとて、自分だって人間だ。
血が通っているのか分からないなどと陰で囁かれようが、皮膚冷たくはないしその下には血液が循環している。
生物としての性能云々はともかく、人並みに痛みは感じるし、当然不死身でもない。
どこぞの自称王子でもあるまいし、自分の血液で興奮する様なアブノーマルさは持ち合わせてはいないけれども、こんな事をつらつらと考えられるのは肉体に余裕があるのか………逆か――。
朽ちた石の小部屋。
崩れ落ちた残骸を縫って差し込んだ光は銀色。
積もった埃が舞い上がる様が目に痛い―――。


そっと目を閉じる。
瓦礫の崩れ落ちてゆく音が耳障りだ
埃とカビと朽ちた木の饐えた匂いがいっそう強くなって吐き気がする。

意識してそれらを感覚から消すと、自身の脈打つリアルな感覚を掴む。


(……来週…、ああ、来月は空けられないか…ニューヨークの商談は…まあ、いいか……)


世の中には、死出の旅路につく前に生前の思い出が走馬燈のように過ってゆくというのだけれど、思い出すのは一月先までのビジネスの予定ばかり。

「残念だったね、君……案外僕の深層心理には居なかっ……」

思ってもいない。
限界を見誤るほど子供ではない。


――――― だから…………まだ…大丈夫。

クスリと漏れていった言葉は何処にも届かない。











午前3時42分



ミッション中定時連絡エラー

雲雀恭弥との緊急回線不通――。








「十代目!情報つかみました、やっぱりフランスです」

トントンとデスクを指弾しながらパソコンのディスプレイと、書類を交互に眺めていた綱吉は息せき切って部屋に掛け込んできた獄寺に、視線だけをやるとデスクワーク用の眼鏡の淵に手を掛けた。
ここ最近落ち着いてきた彼がこんな風に取り乱す事は、随分と少なくなってきたのになあ、などと考えていたと言えば怒るだろうか。乱暴に開けられたドアには、獄寺の後を追ってきたらしい山本が微かに息を整えている姿もある。
彼が持ってきた情報なのだろう。
通信手段はいくらでもあるけれど、下手に漏れては困る類のトップシークレット。
きっちりとドアの向うの人払いも済ませて、後ろ手で扉を閉じるのを待ってつかつかと綱吉の前まで来た獄寺は声のトーンを少し落とした。
片手にもったファイルに隠すように挟んできた地図を、今まで綱吉が採決していた書類の上に広げた。
常の彼ならけしてしない行為ではあった。よれよれの地図の上には、ペンや赤いマジックの走り書きが至る所に見える。目を細めて読みとる地名は微かに記憶の片隅に引っかかっていた。


「うちで拾えた信号の発信場所から、随分離れた所にまで移動していたようです……今から。―――十代目?」
「いいよ。山本も、そんな手配しなくて構わないから」

掌をすっと上げて獄寺を制すると、内線に手を掛けようとした山本の手も止めさせた。
「いいよ…」噛んで含めるような言い方をした。明らかに、自分に言い聞かせるというよりも今はもう部下の仮面が剥がれ落ちた友人二人に対しての言葉。何がいいというのだろうか、珍しく綱吉の言わんとする事を汲みとれない二人が、どこか苛立ったような気配を見せたが、綱吉は張りつめた二人を宥めるように微笑んだ。

「ツナ、今発てば夕方にはフランスに……」
「明日の会議は抜けられないでしょう?」
「そんなこと俺たちがどうにかしておきますっ!!」


資料を、地図の下から拾いだしている綱吉の手から書類をひったくる様にした獄寺に、今度こそ綱吉は困った顔を向けた。
明日の会談は、獄寺の部下達がどうにか根回しをして取ってきたアポだ。彼らがどれだけ走り回ってきたのか、上司である彼は当然分かっていたしその働きを労ってやれないほど、周りの見えない子供では無くなっている。その獄寺が行けと言うのだ、全て不意にするような立ち回りはしまい、それを綱吉は勿論重々承知している。


「ねえ、二人とも落ち着こうよ。御茶でも入れる?」
「十代目っ!?」
「―――………わかったよ、ツナ。そんじゃ、俺らも仕事戻るわ」
「は?山も…」


「信じてるんだな?」
「そうだよ」


獄寺の言葉を遮って発した。
その言葉は、綱吉が最後の最後に残しておいた最強のカード。
それに反論できる言葉を彼らは持たない。それを知っていながら、なんの迷いもなく綱吉は頷いた。
いつものように、穏やかに。
はっとしたように顔を上げた獄寺に向けて、笑みを深くして。

一瞬だけ、山本の瞳に何か別のものが過ったが綱吉は見なかった。見なかった事にした。気付いた事すら気取られる事が無いように。
後ろめたい事があるわけではない、けれど誰にもさらけ出さない部分など誰にだって多少なりともあった。いくら親友であっても、だ。
綱吉に限って言うなら、殊雲雀恭弥に関する部分がそこに当たる。
山本は、いや獄寺や守護者たちならば皆知っている、雲雀と綱吉との関係。
二人だけで共有するものを探るほど無粋ではないし、またその甘さも自分自身知っている。
だからこそ、早朝。
息せき切って山本の部屋に掛け込んできたジャン・ニーニと共に情報収集に駆けずり回ったのだ。
綱吉に報告を上げるのか、迷っ末に明け方獄寺が報告に行った。言うべきだと主張したのも、彼だった。
やがて、綱吉の部屋から戻った獄寺が綱吉から『自分たちの仕事に戻れ』とそんな言葉を、ぼんやりとした顔で持ちかえった。
山本は、その返答を半ば予想していのかもしれない。

風紀財団とロンドンの地下組織との接触だということだったが、ボンゴレも今回は少しだけ噛んでいた。
幾らかのパイプを貸していたのだ。情報を、財団に売った、と言ってもいいかもしれない。接触日時と場所は大まかにしか伝えられていなかったが、詳細な報告書が上がってくる予定だった。
定時連絡も、衛星を通した信号通信のみに留めていた。雲雀が自ら赴くにはさほど面白みのない相手ではあったが、持っている情報が魅力的達だっのだろう。財団も、ボンゴレも、狂信集団だという事を知ってはいたが、さほど問題視してはいなかった。
数年前までの雲雀ならば、一方的に通信の遮断も強行したがビジネスは割り切る事をもう覚えていた。
自分が一度頷いた事は、尚更。
何かあったのだろうと勘ぐるのは、過ぎた心配ではないはずだ――。
けれど。

自分たちのボスは、もう不確定な情報に踊らされるほど子供ではない。



「二人とも気を使ってくれてありがとう。少し休んでいいよ?」
「いえ、俺たちこそ、先走りました。申し訳ありません!後回しにした仕事が残ってますので」

広げた地図をテキパキと片づけながら、獄寺がいつもと変わらず今日の予定の確認を始めた。
一日分働いた気がしていたが、今日はまだ始まったばかりだった。
綱吉は勿論、山本も獄寺もボンゴレの常駐幹部である。
それぞれ、それなりに忙しい。
先ほどまでの緊迫した空気を何処かに溶かした二人は、それぞれの持ち場へ戻ろうとしていた。
一度、背を向けて。けれど「ああ、そうだ」と天気の確認でもするかのようにのどかな声を綱吉は発した。


「勿論分かってると思うんだけど。あの人の獲物だから、野放しでいいよ?」
「これ以上時間外予定外労働はしないって……あとがこえーのな」
「追跡は草壁が卒なくやってるでしょーし。あとはキリキリ報告書徴収するだけっすよ」






―――――――――― パタン ……


ドアが、控えめな音を立てて閉じた。
掛けていた椅子の背もたれに、ゆっくりと綱吉は身を預けた。
ひとつ溜息を落としたが、けれども悲痛なものなど何も感じさせない。ただ、一つ仕事を片付けた時のそれだった。
彼だけが、ただ独り――……


ぼんやりと天井を見上げた視線が少しだけ泳いだ、その時。





―――ピピピピっ


デスクの引き出しにしまい込んだ携帯が、けたたましく鳴った。
少し驚いたものの、けれども焦る事もなく、喜色を滲ませる事もなく、かといって落胆でも無く、しごく常と変らぬ様子で片手に取った。

「ほんと、みんなおせっかいだなぁ」

ディスプレイに表示された文字に、今度こそ苦笑が滲んだ。
そして、少しだけ苦笑と違うものに表情を歪めた。



「はい」
『よう。馬鹿弟子、仕事してるか?』
「してるよ、哀しいくらいにね。これから出るから、用件だけにしてくださいよ先生」
『景気がいいのは結構なことだぞ。まあ俺だって、男なんて釣ってる暇はねーよ。お前の旦那は病院だ。指定されたカタコンペに爆薬仕込まれたらしいな、自爆テロとは御苦労なこった。いくら得物も匣も携帯させなかったっつっても、相手が悪過ぎだな』
「あーあの人、生き埋め程度では死なないなあ」
『……なんだ。やっぱりお前、旦那より姑と仲いいのか?』
「いや、草壁さんからはICUに入ってる事くらいしか聞いてないよ」
『……―――』
「なんでそこで溜息つくのさ?」
『面白みのないガキに育ったもんだと思ってな。ここは、お前、何おいても飛んで来るところだろう?』
「そんな事したら、教壇より先に俺がボコボコにされるでしょ?来るって、なんだよ。お前もフランスなの。めずらしい、今回のターゲット恭弥さんとブッキングでもした?」
『まあ、そんなとこだ。出る杭は打っときたい連中は多いからな。でも俺はもう引くぞ、回り回って雲雀と遊んでやるほど暇じゃねーんだよ』
「大丈夫でしょ。先生、強いから」
『他人事だなお前完全に………』

ふっと、降りた沈黙。それじゃあ、と携帯のボタンに指を伸ばしかけた時、小さな機械の向う側でリボーンが言った。


『大丈夫て、そんな軽くはないだろう、なあ?』
「……りぼ…」

もう一度、耳元に戻した携帯は、もう静かな電子音しか伝えて来なかった。
だから嫌だ。


逢いには、行かない。
白い顔をして、白い部屋に横たわる姿など見たくなかった。彼だって、見せたいとは、思わないだろう。
かの教師は笑うのだろうか。
こんなにもボンゴレの仮面を落とす事がなくなった自分が、これほど脆い事を。
それだけを、必死に今も護っている。雲雀もまたそれは同じだ、互いのプライドに掛けて。
他愛ない言葉を交わす幸福を何よりも知っている。
離れているからこそ知っている、そして恐れもある。

次に、彼を目にして自分は何を思うのか。
いや、彼は何事も無かったように目の前にやってきて、少しだけ喧嘩をしてそして唇を交わして、いつものように腕を伸ばしあうのだろう。



「大丈夫になりたいんだよ。ねえ、ほら、俺には、まだ、あの人だけじゃないんだし、ね?」


その呟きが、何よりも雄弁だった。






―――彼だけなのだ





何処かで、誰かが囁く声。
聴こえはしない、けれども何より知っていた。



強さと同じくらいの脆さで