「………地獄だった………」
真っ白な障子を朝の光が透かして、やわらかなコントラストを作る。
まだ少し目に冷たい色をした光が格子を浮かび上がらせて、影を落としていた。
庭からはちゅんちゅんと小鳥の囀りがかしましく聞こえてくる。
今日も良い天気だ。
朝、である。
紛うことなく―――
雲雀恭弥は瞼にあたる朝の光にそっと目を開け、空いている片手の甲を額に当て呟いた。
いや、呟いてしまった。
爽やかな朝であるはずなのだが、このぐったりとした身体はどうしたものだろうか。疲れが抜けていないどころではない、眼を開いたただ今この瞬間にどっと疲れた。
彼のこんな枯れ切った声など、誰も聞いたことがなければ本人とて音にしたこともない。
恐ろしい子だ。
いや、本当に。
「……――っきょう…ちゃ……ん」
空いていない方の腕、子供を抱きかかえた手。
寝付きも良ければ、起こしてもなかなか起きないという寝汚なさを誇る子供の小さな声が聞こえた。
一瞬、起こしたかと身体を固くするもののギュッとまたすり寄ってくる様子になぜかホッとした。
幼い頃の呼び名だ。
何時の頃だったか、この子が自分を呼ぶ呼称が変わった。
「きょうちゃん」と覚束ない足元に雲雀をひやひやさせながらついて来た子供は、いつの間にか雲雀の知らない所で大きく成長してゆく。
仕事の都合もあって、義務教育を終えた頃には長期にわたって並盛を空ける事もあったから、余計に。
思い返せば、その頃にこの子の成長期は訪れていたのだ。
もちろん、今だってその過渡期ではあるけれど。
そんな子供に、いつの間にか所謂劣情を含む感情(……今さらどんな言葉で飾ったところでどうしようもない)を向けていた自分に流石の雲雀恭弥も自己嫌悪するも、なんだか不毛な気がして仕方がないのであえて考えない。
寝乱れた前髪から覗く小さな額、伏せられた大きな瞳を縁取る長い睫毛が頬に影を落とす。
すべらかな真っ白な肌、色素の薄い髪はやわらかい光に金に近い光彩へと透けている。
自分の着物の裾を握りしめているのは小さな手。
何もかもがかわいいと、愛おしいと思う。
ああそうとも、思うとも!
この、他人に対する感情は無関心とか、面白そうとか、その程度のランクのものしか持ち合わせていない非人間(外野の弁)が。
これはいっそ快挙である。
奇跡ですらある。
穏やかな寝顔は、年相応……いや、もしかしたらそれよりも幼く見えるかもしれない。
だって雲雀は知らないのだ。
彼以外の比較対象を。
じんわりと暖かい子どもの体温は、いつだって妙に雲雀を安心させる。
この子だけでいいな。
など、考えるまでもなく決めていた。決まって、いた。
抱きこめばふわりと甘い香りがする、子供が好む菓子でもなく、ましてこれまで雲雀に媚を売ってきた女たちのものでもなく、優しい陽だまりのような香り。
昨夜、もう今日にも近い時間であった。
この子どもは、雲雀の『年の離れた幼馴染』、から『恋人』になった。
その過程に筆舌に尽くしがたいあれやこれがあったのだが、あまり考えたくない。
だめだ。
考えるな。思い出すな。
無性に恐ろしいものが今、頭の中でキラッとポーズを決めようとしている。
だめだ――。
結果だけを今は大事にしようかと思う。
昨日の今日。
いや、だからまだ24時間ですら経過していないが―――二人は同衾した。
一緒のお布団で一晩共寝、した。
愛があれば年の差なんてと世間はいう。
年の差の考慮の前に、法律だの、モラルだのを声高に叫ぶ自称まっとう人間は朽ち果てればいい。
早急に。
今回ばかりはめんどくさいので自分で手を下さない事にしてもいい。
勿論、いい加減いい歳をした雲雀からしてみれば、その言葉はあまりにも生々しい現実への妄想をかき立てて響く、これを既成事実と世間さま方はおっしゃるのである。
責任問題云々を叫んで余りある。
年端もいかぬ子どもにいったい何をさらすのだ、この人でなしと罵ればいいじゃないか!
諸君、驚きたまえ。
彼らは本当に、一晩きゅっとくっついて眠っただけだ。
読んで字のごとく。
字面のままに。
寝巻きにしている単衣に袖を通して帯を締めたころに、とことことそれはやってきた。
ひょっこりと顔を出して、にこりとはにかんだ笑顔を浮かべて。
「恭弥さん、一緒に寝てもいいですか?」
ひとつ頷いて手まねきすると、綱吉は小動物のように走り寄って来たかと思うと、ぽすっと胸の中に飛びこむ。
隣に腰を下ろすのだろうと思っていた雲雀は、受け止めた衝撃に少し背をしならせて、それでも目元を和ませたのだった。
腕を背に回して縋りつかれる。
胸に押しつけるようにした頭、顔は見せてくれない。そっと名を呼んで、髪を撫でると背が揺れた。
その様子に、首を捻るもすぐに思い当たる。
照れているのではないのだ。
どちらかというと、怯えているのだ。不安なのだ。
ほんの幼い頃は、なんの屈託もなく自分の胸に飛び込んできたくせに、呼称が変わった頃からだったか何かの遠慮を見せ始めた。
当時は、子供の成長だと、離れて行ってしまう寂しさを覚えたものだが、今から思い返すならその頃から肉親や親しいものへと向ける情とは、別の愛情を意識し始めたのだろう。たぶん…。あながち外れてはいないだろyが、願望が入っている事は否めない。
重ねて言おう。
何度だって言ってやる。
昨晩、二人は恋人同士になった。
言葉を交わして、口付けを交わして、そして恋人となったのだ。
めくった掛布の中に、小さな身体をすべりこませてくる子供がその細い腕を雲雀の胸に回してしがみついてくる。
そっと抱きしめると嬉しそうに口元を緩める。
柔らかい髪を梳けばくすぐったそうな声があがる。
「きょうやさん、きょうやさん」甘えた声が自分を呼ぶ。
幼いばかりではないけれど、しかし少年はまだまだ子供なのだ。
―――情緒面で………。
一緒に寝ましょう?
残念だ、
非常に残念だが…。
そんな言葉に、雲雀は夢などもったりしない。
下世話な期待などちびっとももったりしない。
それはそれで、青少年の色恋的に寂しくも侘しい限りである。
いや。放っておいてほしい―――。
そういう事を、今の段階でこの子に望んではいけないと意識を飛ばしたくなるような体験をもって思い知っている。
告白をされた時、雲雀でも一応知っている世間一般のお約束。
彼氏のプレゼントに「私をあ・げ・る」などといった、非常に安上が・・・・いや、捨て身の一撃必殺、当たれば確実外せば自滅する技があるのだが、それをもってきたのだと、期待した。
「一晩泊めてください」「既成事実を創りましょう!」恋しい相手に言われて期待して何が悪い。
大人の汚い欲望だと罵るなら前に出ろ。直々に噛み殺す。
そんな大人らしい分別のある良識なんぞ粛清してやる。
既成事実は作った。
触れるだけの可愛らしい口付けとい事実を―――。
今日は帰ってきてもお家に入れてあげません!と保護者に言われている子供は、その後お泊りお泊りと嬉しそうに笑っていた。
「着替え持ってきます!」
にこにこと笑って、駆けだす。
お隣同士であった。御近所づきあい(某愉快犯の一方的な見解)も二桁を超える。
勿論お泊りなんぞ、今更だ。あの子供が雲雀の家に一晩いることなど、これと言って珍しい事ではない。何故か。
パタパタとリビングを飛び出す背中に、転ばないようにと声をかけ見送る。
自宅へと帰ったわけではない。雲雀の私室の隣の部屋は綱吉がいつ来てもいいように、彼の私室さながらに整えられている。何故か
当然、着替えの一揃え二揃えくらいいくらだってあるのだ。
その後、ぽつんと独り残されたリビング。
疲れたように息を吐いてトボトボとバスルームへと消えた。
疲れ切った本日。
暖かいお湯が恋しかった。
ついうっかりと。
―――そうそう、そうだよ!いけないな、失念していたよ!!
雲雀は笑ってしまった。
キャラにない笑い方をしてしまった。
浴槽の中、向かいに綱吉がちゃぽんとお湯に漬かっている。黄色い鳥を手の平にのせて楽しいバスタイムを満喫していた。
「どうしたんですか?あ、背中、流しましょうか?」
「いや…いいよ……うん」
お構いなく……いや、ほんと、ほんとにね―――。
悲しい。非常に哀しいけれど雲雀にだって事情がある。
向かいの綱吉。膝の上にのせてほしいなど強請られなくて本当に良かったと、なぜこんなにも切ない思いをしているのか。
きゃっきゃと鳥と遊んでいる子供を見る。じっくりと観察してしまう。
濡れて肌に張り付いた色素の薄い髪。伝い落ちる水滴が流れ落ちるのは、白いなめらかな首筋から肩の薄さを浮き彫りにする窪んだ鎖骨、そこから続く華奢な肩。
庇護欲とは別の、熱い感情が湧きあがるのは致し方なかった。
(嗚呼、僕も人間だったんだな)
そんな安心の仕方があるだろうか。
相手は中学生、しかも同性。その時点で安心していい事ではないはずだが、生憎雲雀は世間一般のモラルの中で生きてはいなかった。
風呂まで一緒。
今更、同じ布団で眠りたいと強請られて誰が驚くものか。
「―――疲れた……」
……の割には結構眠ってしまった。
その事実がまだ雲雀を少なからず打ちのめした。この子供を抱いていると落ち着く、安心する。
ふわりと香る甘い香りが眠りを誘う。
劣情をコントロールする術を求める前に、無邪気な瞳が庇護欲を誘う。
愛玩動物を可愛がるような愛情がそれを上回る―――。
今は、まだ。
まだ朝は早い。
もう少し、子どもと一緒に惰眠を貪るのもいい。未だ寝息を立てているものの、しっかりと雲雀にしがみついている綱吉を抱え直すと目を閉じた。
「…………っふ……ひどい、ひどい……無視する事なんてないじゃないか!恭ちゃん」
ああ、鬱陶しいな――。
目覚めた瞬間、ずっしりと落ちてきた疲れの源。その根源がさめざめと泣いていた―――。
無視しよう。
抱き込んだ綱吉の髪に頬寄せ、目を閉じる。
―――しくしくと湿っぽい空気と、鼻をすする音が一層大きくなった……。
雲雀の駄目なところである。
これをとことん無視できないところが、非人間、人でなしと謗りをも受ける雲雀恭弥の駄目なところである。
勿論、対応は人によるのだが。
こんな事だから『恭ちゃんはいいこだなあ』などと、年配(その言い回しですら実は控えめである詐欺師な老人)のお隣の住人に評されている事など彼は知る由もない。
……むくり………。
綱吉が起きないように、と身体を起こす雲雀にぱっと表情を明るくするお隣の、おじーさま。
隣で眠る綱吉と良く似た面差しの男。名を、沢田家康と言う。
産地はイタリアであるが、数十年前から日本に住み着き国産のラベルを手に入れた。
国産牛と和牛の違いのような認識は、コレが人間カテゴリ―であると認めたくないがゆえである。
常々雲雀は、自分はそこいらの草食動物は勿論、その他マフィア関係者諸々とは生物としての性能云々、カテゴリーが違うと思ってはいるが、もしこのジジイと同じところにカテゴライズされるというなら、唯の人間でいいと本気で思っている。
雲雀にとっては鬼門である。恋人(何度も言うが、間違ってはいないはずだ)の祖父であるといっても、だ。
雲雀恭弥も避けて通る。ある意味最強の、年齢不詳の妖怪であった。
まさかの寝室訪問なんぞ、今更だ。
コレでも、イタリアンマフィアの首領なんてものをやっていた。
実力は、認めるのも癪だが一級品だ。
その実力が建設的な方面に発揮されたているところを、残念だが雲雀は一度として見た事がないのだが。
「なんなの?」
「私の育て方が悪かったばっかりに恭ちゃんの『ウハッ☆幼な妻を夜的教育生活』のスタートが暗雲立ちこめる感じになってしまった事に対するお詫びに、腹をかっさばく覚悟で参ったしだい」
そんな計画立てちゃいない。
自分の楽しみのために、やってるのはお前本人じゃないか―――とは言わない。
言えばマシンガントークで撃ち返されるのは目に見えているのだ。
真っ白な単衣。所謂死に装束で正座である。わきには何やら包まれた箱が置かれている。
「お詫びのしるしに、計画が駄目になった恭ちゃんの夜の御供を・・・・」
「帰れ」
うちはあなたのコレクションのギャラリーに成り下がっちゃいない。
だいたい、それはまだ綱吉が幼いからであって、ここまでくればそれなりに忍耐も付けば、気も長くなるわけで、彼の成長を待ってだね、完全に駄目になったわけでは……あれ、どうしてまた言い訳じみた事をしているのだろうか。駄目だ…またペースに乗せられている――
「失礼な!純粋な厚意なのに!!だいたい私の好みは、黒髪黒目の純和風美人……あれ、聞いてよ?」
「暫く、帰ってくるの……やめようかな……」
げっそりだ。
「何、ちょっと聞き捨てならないな!うちの綱吉の何が気に入らないっていうのだ恭ちゃん!!」
「主にこの子の祖父が」
と言うか、その一点のみが問題だ。
「なんたる抜け駆け!?奈々ちゃんの父上にもう会いに行ったというのか?この私への挨拶を差し置いて―――」
光の速さで寄ってきたジジイはガクガクと雲雀の胸倉をつかんで揺さぶる。
朝から脳みそをシェイクされながら、それでも、コレを秤にかけても綱吉が可愛いからちゃんと引っ越しもせず、この家に帰ってくるのではないかと濁った眼で回る視界をぼんやりと見る。
「……ん……ッ」
「ちょっと、あんまり騒がないでくれるそんな事をしたら――」
「――んー…む……。おはようございます、恭弥さ…………」
「おはよ…。っちょ、なにどうしたの綱吉?」
モゴモゴと動く布団に目を落とすと、今まさに綱吉が億劫そうに起き上がろうとしていた。
普段は驚くほどの寝汚さを見せるものの、今日の目覚めは良いらしく今日という朝の特別さをかみしめるようにはにかんだ笑みで微笑む、はずだった。
雲雀を仰ぎ見た瞳が点になる、次に酷く白けた冷たい色になる、そして最後に大きな琥珀色の瞳が水の膜に覆われる。
「っふ、ふええええええ」
「綱吉?」
「あー恭ちゃんが綱吉泣かした」
唐突に泣きだす子供に雲雀は訳が分からない。
侵入者の相手などしている暇などなくなった。
ぽろぽろと涙をこぼして泣く子供の頬を両の掌で覆って、流れ落ちる雫をぬぐってやりながら殊更やさしい声で名を呼ぶ。
「だって……だって、俺がまだ子供だからって、だからって俺と同じ顔のじーさまに…しかも一緒に寝てる部屋でそんな、そんな事しなくたっていいじゃないですかああああああ」
「…………ん?」
酷い酷い!と雲雀をなじりながらエグエグと泣く子供。
そう言えば、朝っぱらから着物の合わせに手を掛けられて、肩にかかるのがやっとというほどにを乱されて、前後の経緯が何もない状態ならそう見えてもおかしくはない。
非常に、異常に、人生とプライドと綱吉への愛に掛けて本気でただしたい誤解である。
「ちょっと落ち着きな。いつものように喧嘩売られてただけだよ」
「…え?」
「どうやって噛み殺そうかなって」
「あ、ああ。ごめ、なさ、い」
大層なものを掛けた割にはあっさりと解ける誤解である。
日頃の行いが窺えようというものである。主に、彼の祖父の。
流石に照れながら、それでも改めておはようございますと挨拶の後、雲雀からのキスを額で受けて嬉しそうに綱吉は起き上がった。
「それじゃあ朝ごはん作ってきますね。怪我しないように適当なところで来てくださいね」
「うん」
「……いいなあ、二人の世界」
ぺたぺたと素足の足音が遠くなってゆく。
コレが日常か…先が思いやられる。
「それじゃあ、後は若い二人に任せて、私もそろそろ家に――――ん?どうした恭ちゃん?」
立ちあがったじじいの白装束の裾を雲雀はすかさず掴んだ。
「最後に白状して行きな、あなたあの子に何言った?」
「……恭ちゃん、そんなマジな顔をしたら駄目だよ。綱吉だって怯えるじゃないか」
坐った目をした雲雀恭弥がそこにいた。
ゆらりと冷たい本気の殺気がゆるゆると部屋に広がってゆく。何時もの「群れるな噛み殺す」の苛烈なものでないところが一層恐ろしさを掻き立てる。
本気だ。いや、いつも本気だが
今日は本気でキレている。
情緒面でまだ子供なのだと、そう思う事にしたのは昨日だ。
しかしなんだ、今のやり取りは。
少し考えればおかしいと思ったはずだが、相手が相手だった。いや、そもそもあの子供に自分も夢を見ていのかもしれない。
今の御時世、小学生だって着物の裾を絡げてヤル事くらい知っている。
そもそもこのイタリア直産の祖父を持ちながら、その手の知識を植え付けられていない方がおかしい。要らない事を教えられている事はあっても、そっち方面に純粋温室栽培の可能性はどれだけ低い?
不愉快極まりない誤解であるが、子供は何と言った。
明らかに、下世話な推測をしたではないか。
「いや、うん、その……御酒とタバコはハタチになってから、ヤラシイ事は18になってから……て」
昔言っちゃって、それ覚えててみたいで…ゴニュゴニュと語尾が消える。流石に悪いと思っていると、そんな推察はするだけ無駄だ。
口元と目が、笑っている。
「ちなみに、その2年はどこから来た?」
「御祝儀?」
―――――――――疲れた…。
「いいかげん、帰ってくれる?」
「朝からげっそりだな恭ちゃん。それじゃあ、そろそろミステリー劇場でも見に帰るかな、じゃあ!ああ、そうそう晩御飯は食べにくるから」
それじゃあ、良い休日を〜。
口笛でも吹き出しそうな上機嫌で、帰って行った。
「もう、いやだ―――」
ぐったりとした身体を持て余して、朝食を作り終えた綱吉が呼びに来るまで布団にくるまった。
彼の18回目の誕生日を指折り数えて待つ日々が到来する。
そして、もうひとつの事実に未だ彼は気づかない。
彼の誕生日は終わった。
しかし連休は、まだ始まったばかりである―――――――――。
18歳か16歳かで小一時間悩みました。
今も、それは大きな命題です。(本気です)
雲雀さんひばりさんお誕生日おめでとう!