その花を、ただ一年じっと待っている 今年も 来年も ずっと ずっと先も――






――――スルリ。

 そっと、隣で眠る人間が目を覚まさぬように、細心の注意を払った動きでもって、腕の中にあったぬくもりが逃げてゆく。
捲られて冷たい夜気を呼び込んだ掛布は、もう一度口元までも覆うように掛け直される。
細い指が優しく前髪に触れ、そして瞬間空気が綻ぶのを感じた。
その穏やかさは、普段目にするものよりも暖かく、清廉で、そして鎮めたものを呼び起こすほどに艶やか。
普段でも、そんな風に笑えばいいのに、と少し子供のように拗ねた事を思ってもいる。


薄く目を開いて、背中で遠ざかる足音を聞いた後、自らも上体を起こした。
傍らで、控え目な灯りが闇を照らしていた。ごくごく淡い紅色の和紙に、桜の意匠をあしらった行燈は、彼がここに持ち込んだものだった。
桜には良い思いが無い、と目を眇めて言えば声をあげて笑っていた。

今はそんな淡い光すら、目に痛く、瞼を揉み解すようにしながら、床に散らした部屋着の紬と帯を拾って、袖を通した。
無遠慮に全て剥いで至る所に散らばるピンストライプのスーツが一式。
帰るつもりは、まだないのだろう。長着の下に着ていた襦袢が、見当たらなかった、彼が、羽織って行ったらしい。
気だるさを色濃く残す身体である。
時計など見なくてもわかる、眠っていた時間など僅かなものだろう。
何も纏わずに眠るにはまだ外気は冷たい季節である。剥き出しだった首筋や肩に手を這わすと、素肌の温度は奪われてひんやりとしていた。

心地の良い眠りなど久々だというのに、妨げられた憤りを素直に『寂しい』と認められるようになって、随分な時間がたってしまった。


それでも、まだ本人には、言えないのだけれど。
帯を締めると、キュッと絹ずれの音が鈍くする。
 

―――ふぅ。
 
静寂のなか、吐いた息だけが嫌に響いて虚しさが増す。
放っておいても、構わない。朝、目が覚めれば、腕の中に何事もなかったかのように戻っているのだろう。そう思いながらも、重い身体を動かして立ち上がった。


「ねえ、マナー違反だって怒ったのは君の方じゃないの?」
 
寝室を後にして、中庭に面した広間へと足を向ける。
テリトリーに他者を入れる事を嫌う彼の屋敷、さらにはそんな雲雀本人の生活スペース。
人の出入りが最小限に制限される。
夜ともなれば、ほぼ立ち入るものはないと言ってもよかった。当たりは静寂に満ちている。
案の定、その廊下に膝をついて何かを拾っている姿を見つけた。
ずっと一緒に居られるわけではない、次に逢えるのがいつになるのかも分からない、半年、は流石に無いにしても、それに近い期間隣を開ける事が頻繁にある。
その昔彼は怒った。
『朝起きて、一人で残されてたら全部夢なんじゃないかって思うじゃないですか!』

どれだけ切なくて、虚しくて、寂しいか。

今は環境に揉まれて随分と図太くなった青年が、揺れる瞳で言葉を詰まらせる様を覚えていた。


「すいません。でも、ヒバリさん、起きてたでしょう?」
「ほんとに、可愛くなくなったね。起こされたんだよ」
ヘラリと、悪びれもせずに笑う顔に、眉根を寄せるとごめんなさいと、腰に手を回してくる。
普段雲雀を猫のようだと笑うこの青年こそ、猫のようだと思う。喉を鳴らして、鼻を擦り寄せて身体を絡める。
「でも、早く水を上げないとかわいそうでしょう?」
腰に絡んだ細い腕が上がる。
肘まで捲れ上がった白い肌に、握られた花が良く映えた。
それは、陽が落ちる間際に訪ねて来た彼が抱えていた花。ひょろりと長い茎の先に、繊細でありながら、どこか作り物めいた薄い花弁を重そうに付けている。
オレンジ、白、赤、青、色とりどりに摘み取られた花に指を這わせて、お土産くらい丁重に扱って下さいよと言って、自分こそが花のように綻んだ。

「来る途中に、咲いていて。可愛かったもので、ポピーですよね」
「……うちに、阿片(あへん)だのモルヒネだの作れって言ってくるつもりなのかと思った」
「色気の無いことを……」

芥子科の一定の種から採取できる薬物を口にした雲雀に、冗談と分かっていても少し頬を膨らましてみる。勿論園芸用のものに、毒性の強いアルカロイドなど含まれていはいない。

「いい歳して、そんな顔するもんじゃないよ」

するりと、綱吉の拳で戦うには華奢にも見える指の間から、一本花を抜き取る。
雲雀は触れれば砕けるような繊細な花弁で、ほのかに紅を刷いたような頬を辿ると、綱吉はくすぐったさに目を細めながら、白い首筋を見せつけるように晒す。

「そりゃもういい歳ですけどね。アナタの方が二つ上なんですからね!」
「……ああ、そうだね」
 
この歳にもなれば、今更一つや二つの差など、瑣末なことだと感じる様になる。そういえば、空の天辺にあったはずの月はもう傾いていて、既に日が変わって幾らか経つことを今更ながらに知る。
綱吉の頬から、唇を掠め、首筋に花弁を遊ばせながら、そう言えばと、雲雀は今の今まで忘れ去っていたような過去のやり取りを、ぼんやりと思いだす。

『ねえ、ヒバリさん。ある人がね、俺はヒナゲシのようだって言ったんですけど…どういう意味でしょうか?』
『……芥子科のくせに毒も薬も取れないくせに、雑草みたいに生命力には溢れてる?』
『やっぱりね!褒め言葉じゃない気がしたんですよ』

頬をひくつかせて、何やらぶつぶつと言っていた横顔を思い出す。
そう言った人物には、二度と会うことはない。
過去の綱吉すら、もう会う事は叶わない。自分たちの過去であるのに、起こる事が無いという矛盾。

だが、それでいいと彼は笑った。


「ねえ、何考えてるんですか?」
「教えない」
 

肌蹴た着物の合わせ、胸元に頬を擦り寄せられる。彼にしては驚くほどに甘えてくる仕草に、我ながら単純だと思いつつも頬がゆるむ。

「――ちょ、ちょっと!?」

雲雀の腰に絡めていた腕を緩め、胸元から顔をあげて不満そうに首を傾げる綱吉の姿に、形の良い唇の端を吊り上げると、屈む。膝裏に腕を、素早く回して肩に抱えあげた。
とっさに抵抗をみせるものの、照れ隠し半分のそれで、雲雀を阻めるはずもない。

「だって、くれるんでしょう?」
「……―――っ」
「自分から仕掛けてきて照れないでくれる?」

広間の、雲雀の文机には白い紙袋。倒れたそこからは銀色のリボンが掛けられた箱が顔を覗かせている。
付き合い始めてから今日と言う日を、綱吉は忘れた事はなかった。
時間を必死に工面して、それこそ一年前から予定の調整をして雲雀のもとにやってくる。
――産まれてきてくれて、ありがとうございます。
と、何のてらいもなく暖かい言葉をくれる彼に返す言葉は、今日伝えるものではない。
ただ髪を梳き、頬を撫で、抱きしめて、ありがとうと言えばよかった。
そして、ほんの小さな我儘を口に乗せる。


「五月蠅いですよ!一つ年寄りになった恭弥さん」

身を捩りつつもキッと、羽織った着物の背を、握り締められるのにも構わず、元来た道を引き返す雲雀。
機嫌は、すこぶる良い。

「後、五十年もすればそんな事気にならなくなるさ」
「……」

ピタリと抵抗をやめる綱吉を、ちらりと見やって、雲雀は開け放した障子をピタリと閉めた。



あとに残されたのは、綱吉の手から滑り落ちたポピー。
俯き、地面を見つめるばかりの蕾は、花開くと同時にまっすぐに、上を向き天を見据えて花弁を広げる。


その花を、雛罌粟(ひなげし)と言う。






2009SCC18。雲雀誕生日祝い的ペーパーより
リサイクルごめんなさい。