硝子の月

――――カツカツカツ……

澱みない硬質な音。静まり返った廊下に軍靴は良く響く。
等間隔で配された灯りが冷たく足元を照らして、長く伸びた影が足元に纏わり付いた。
あらかじめ人払いはしておいたが、こんな姿を部下に見せるのは得策ではない。早く目的の扉に滑り込んでしまうに限る。
顔を上げれば痩せ細った月がぼんやりと空に浮かんでいて、随分と早く流れてゆく雲の影を微かに映し出した。
あと二日ほどで新月。

ここで立ち止まってしまえば、やはり出るのは溜息ばかりなのだと、自分が一番分かっていた。
容易に想像できて、早足に進めていた歩みを幾らかゆっくりとさせる。

ここまできて思考に更ける事は愚かなことだと、流石に骨身にしみている。今はただ、目の前の大事を成さねばならない。
負えるものはなんでも背負って行くと腹は決まっている。
それは、揺らがない。


―――あなたの、せいですよ……

今度こそ一つ大きく溜息をついた。
苛立たしげに搔きあげた、おさまりの悪い髪をぐしゃぐしゃとかき回す。
命は尊い。誰のものも…国王であろうと、聖職者であろうと、一兵卒であろうとも、命と命を天秤にのせる事などあってはならない事だ。
それが理不尽に踏みにじられているこの現実があるからこそ、自分は今ここに居て、そしてまた戦場に立つのだ。
矛盾と分かっていても、それを摘む。
自分が特別だからではない、自分にその力があるから――それすらも、逃げか。


自分で決めたから、だ、…………手を紅く染めようと


英雄になどならない。どんな大義があっても人を殺すことは等しく罪なのだという言葉も、守るために戦うのだという言葉も、例え自分が傷ついても………、そんな言葉が心底甘い事を何よりも解っていながら、それを口にする事を止めてしまったら、自分が自分で無くなることも。
たとえ、その同じ口で戦場へ兵を送る命をだすのだとしても。
等しくなくてはならない。
…………そうじゃなくちゃいけないのに――。


「気付いてしまったんですよ」

緩めていた歩調を戻すと、抱えた薬瓶とガーゼや包帯がつまった箱を握る手に力が籠った。
伏せ気味の瞳はけれども、下は見ない。
無機質な人工の灯りの下で、いっそう美しく焔をともして揺らめいた。触れれば凍傷を起こすほどに冴え冴えと、砕けて散ってしまいそうなガラスの月よりも凛として。
呟いた声は硬く、冷たく、何かを諦めたようで、何処までも透明。
それでいて、つっと雫を垂らしたように背筋を甘美に流れていった――。



気付いてしまった――









ゆっくりと目を開ければ、そこには闇が広がっていた。
つらつらとまどろみはしていたが、身体に巣食った熱が眠りに落ちることは許してくれなった。意識はほぼ起きていて、それだけで体力はゆっくりと奪われてゆく。
その場所を特定しようと意識を集中しなければ、解らないほど、じくじくとした断続的な痛みに全身支配されていて、患部が放った熱が全身を犯す。
薬を使えば楽に寝る事は出来るが、有事に咄嗟に動けない。
今の局面、この部隊の要は自分と上官である以上迂闊なことはできない。

陸路と海路の主要中継地である街の防衛。

下された命を要約すれば簡単だ。けれども、配給された物資は最低限で、彼の下に付けられた兵はそう多く無く、長引く戦いに今満足に戦える状態の者は更に減った。
絶望的な命令を下されたのだ。
誰の目にも明らかだった―――……暗に死んでこいと言っている。
軍属であれば、上からの命令に従うのは当然。規律や、他人の命令、そして集団行動を何より嫌う雲雀ですら当然という。

―――けれど。
消したいのは、俺たちだけでしょうに?
おどけて肩をすくめていた青年が、その仕草に反して瞳に凍える炎を宿した瞬間を見た。
懐古主義のカビが生えた古狸には、それはもう最大級に煙たい存在である青年は、士官学校時代から知っていた。
初等科までは何処で何をしていたのか、誰も知らない。不思議にも思わない。
幼等部からの一貫教育ではあるが、中等科や、本格的に士官教育の始まる高等科から編入してくるものも多かったから。
中等科入学の頃は、成績は常に最下層、実技も同じくまったく使い物にならなかった。
国王だか総大将の後ろ盾があると、陰で囁かれるくらいに、屈指のエリート校では異彩を放っていたのだ。他人に興味の一切を示さない彼、雲雀恭弥の耳に入る程度には。
それが、しなやかな苗木が、まるで陽光と水を漸く与えられたように伸び始めた頃には、たぶん、もう手遅れだった。
その手遅れ、……はあらゆるものに掛ってくるのだから始末に負えない。



「―――っ……」
「無茶しないで。包帯くらい俺が換えますよ」

静かな気配がそこにあった。
扉を背にして、救護室で見覚えのある箱と、そして今開いたばかりの夜目には蒼く刺さる様な白い清潔な布の束を抱えて。

「軍医は、部下達の下にやりました。貴方の負傷は広まってません」
「それでいい」
「はい。雲雀恭弥の負傷は、指揮に関わります」

漂ったリンの香り、ランプのオイルが気体に代わってゆく臭い。燈された灯りに目が痛い。
失態だ。
他人の気配には殊更敏感なはずなのに、テリトリー、広くはない部屋にまで侵入されて、そして声を掛けられるまで気付きもしなかった。
自分の容態ではあるが、客観的に分析できていたはずなのだが、いくら今目の前まで歩いてきた本人の事を回想していたといっても、とんだ注意力散漫だ。

水差しだけが載った簡素なサイドテーブルに、抱えていた箱を降ろす。その際、水差しの載せられたシルバーのトレイに視線を落として、顔をしかめた。
薬包紙に包まれた薬は、全て手つけていない。
「飲まないと、身体休まりませんよ?」
起きられますか?と、落とした声で尋ねられたが、手を借りるのもなんだか癪だったのでどうにか独りで起き上がる。普段よりもずっと緩慢な動きだったが、彼は手を出さずじっと
見つめていた。
座ったまま片手をついて、ふとシーツを見ると肩の辺り、塞いだはずの傷口から流れた赤黒い血で染まっている。どうりでべとつくはずだ。
自分の血臭も気がつかないほど、そうしていたらしい。

「やっぱり、縫った方がいいですか?」
「……いや。いい、血は一晩でなんとかなるだろうから」


鮮血ではない、弾は抜けているし、もともと止血のために傷口は焼いておいた。じきに止まるだろう。
雲雀は呆れた様な溜息を、背中で聞いた。
それまで手持無沙汰にしていた手が、シャツに掛る。その手は払う事はせずに、好きなようにさせる。使い物にならなくなったシャツを丸めて床に放ると、きつく巻かれた包帯を丁寧に解いてゆく。言葉ではなんと言おうとも、その手が必要以上に緊張していて、そんなに繊細な作りをしていないのは、良く分かっているだろうにと笑いたくなってくる。
濡れた包帯も、ガーゼも同じように床に捨てて、アルコールで消毒した後、何重にも重ねたガーゼと、そして油紙を当てて、また白い包帯を少し痛いほどきつく巻いてゆく手は澱みなく、随分と手慣れていた。
言葉も無く、淡々と機械的にこなしてゆく。

「…………御礼は、言いません」
「当たり前じゃないか。君も漸く解ったの?……いくら僕だって、今は君の下に居る事を理
解してるんだ」

状況を鑑みて、今この時に頭を取られる訳にはいかない。
咄嗟に背に引き入れた今日の判断を、誤りだとは思わない。
これまで、彼を軸に統率された隊はそれが強みだったが、逆も然りだ。急ごしらえで充てられた兵を、各個使えるように訓練など短時間では到底できるものではない。ここまで良くもったと思う、奇跡だ。しかし、それこそが彼の資質で、そしてお偉方から煙たがられる所以なのだろう。
どれだけのものを背負っているのか、勿論もう理解している。敵からも、味方からもどれほどの絶望と、期待を背負って送り出されたのかも。
誰かの下に付く事が嫌いで、個人の采配が許される諜報特務隊、あらゆる成績とポイントを稼いで配属された部署に籍を置きながら、ここに自分がいる意味。

「誰かの下に付く事は、嫌いだ。でも……負け戦は、もっと嫌だね」
「解ってます」

静かに、頷いた。
彼が説く甘い理想は、結局現実の前では無力だ。此処では命の優先順位が、存在する。
彼を失えば勝率は下がる。致命傷だ、零といってもいい。
雲雀一人ならば生き残れるだろう、けれど今それでは意味がない。代わりになどなれるはずがない。



だから…………………









―――――――――――――――― 嘘だ。











咄嗟に動いた身体。
理由を後付けして、みっともなく言い訳を探している自分が滑稽で、堪らない。
今じゃなければ、良かった。そうすればもっと見ない振りが出来たのに。今回の転属、彼の生存確率を上げたい者たちと、自分を煙たく思っている者たち、両者の思惑が一致したから話がきた。
けれど、断れない話ではなかったのだ。

負け戦は、嫌いだ。
けれど、そこで尻尾を巻いて逃げるのはもっと――。
可能性の低い掛けに出るほど愚かではない…。

挙げればきりがない。
どうして、自分は此処にいるのだろう?
答えなんて、本当はずっと昔から知っていたのに。


――可笑しい

後悔なんて言葉、やっぱり出てくるはずがなかった。




「シーツ、代え終わりましたよ?」

血に濡れたシーツに、床に放ったままのシャツと包帯を包んでいる姿。
部隊の総大将がする事ではない。
強がっていても、熱も痛みも臨界点に近い。倒れ込むように沈んだシーツは、消毒液の臭いがした。

「もう、いいよ。少し寝る」
「……ええ。それじゃあ」

横を見やると風も無いのに、ゆらゆらと燃えるように琥珀色の髪がランプの灯りに照らされていた。コポコポと小さな音を立てて、水差しからカップに水をコップに注ぐ姿。
億劫だとは思ったけれど、肩を浮かせてそれを受け取ろうとした手をやんわりと制して、起き上がろうとしていた肩を押される。ちょうど、傷口のある方を。

「っつ……き、み…っ――――…」



開いた唇に押しつけられたのは、温もりでは無くてひんやりと濡れたもの。
結局、身体が求めていたのか考える前に流し込まれた水を嚥下した。舌に残った苦みに気付いたのは、その後。


「薬と、傷と、熱でちゃんと眠れますよ。気休めかもしれませんが、身体を休めて貰わないと」

睨みつけると、苦笑が返ってきた。
悪いと思っている顔ではない。この反応に対しての苦笑。
今晩は此処に詰めていますと続ける言葉が、拭いもせずに水滴を滴らせる艶めかしい唇から零れた。

「……気配は、消しておいて」
「解ってます」


限界だった。
視界は歪んで、声も掠れる。他人がいる部屋で眠るなんて、こんな状況で薬の一服でも盛られなければできはしない。
ひったくる様に彼の手から奪ったカップの中身を飲み干して、毛布に包まる。暫くしてラン
プの明かりも落とされた。

「次の新月………例の計画、実行しましょうか?」


穏やかで何処までも平坦。
静かすぎるのに、何処か艶やかだと思った。
次の新月までに戻って、いや準備も全て整えて、逆算するならこの戦場をあと多く掛っても3日前後で片づけなくてはならない。無茶苦茶を言いだしたものだ。
建国の英雄の血は、局面では何処までも豪胆だった。
その血はまた、クーデターによって国を滅ぼすのか、それとも救うのだろうか――。

吐息が笑みの様に、空に消える。応える彼がクスリと笑った。










カーテンは少し開いているのに、月の光は入ってこない。
外の風が、いっそう強くなったことは木々がしなる音だけで知る。
真っ白なシーツを、ただじっと見つめて夜を超すのは、初めてではない。しかし、今日そこに横たわる人。
器用に、寝息の一つもたてないから心配になる。口元に掌を当てようものなら、枕の下のナイフで頸動脈を切られるだろう事は予想が付く。
時折あがる微かな、痛みと熱に呻く声と、上下する胸を見つめていれば安堵した。
まさか、そんな姿を見るなんて予想もしない。
昔から、まっすぐに伸びた背中だけを見ていた。理不尽に噛み殺された事は、士官学校時代から何度もあって、畏怖の対象であって、一生追い付けない背なのだと思っていた。
血統のコンプレックスを人知れず抱えながら、憧れていた。
それを知っても、何の興味もなさそうに声も無く切り捨てた姿は、衝撃だった。


椅子の背もたれを片手で抱きながら、瞼を閉じれば目の前で鮮血が跳んだ瞬間を何度も繰り返す――。


瞬間思い知った自分の心が、その度に軋むのが良く分かった。
反射的に手に取った銃の引き金を、何時引いたのか覚えていない。幼い頃から家庭教師が付いていて、訓練は受けていたけれど自分が逃げ伸びる為の、相手の動きを封じる術だったはずだ。けれども、倒れた敵は急所を綺麗に撃ち抜かれていた。
発砲した弾はたった一発、綺麗に脳幹を抉っている。即死だったろう。
恐ろしいと思った。
あの時のシュミレーション、もしも…今なら何通りだって考えられるのに。奪わなくても良かったのではないのか、と。誰が何と言おうとも、いつだって何度も何度も自問するのに。

それなのに、今日、心の奥底には後悔の一つも浮かんでこない。


暖かく育ててくれた両親が大切だ。
ずっと共に居てくれた友人たちが、大切だ。
ここまで生き残れるくらいに徹底的にしごいてくれた教官も、大切だ。
慕って、ついてきてくれる仲間も、部下も―――

それは全て等しく、代えるものが無いほど重い。
けれど、気付いてしまった。見たくもない醜悪さを伴って、突きつけられた。
腕に額を押しつけて、今日何度目になるか分からない溜息を飲み込んだ。
言ったら、彼は哂うだろうか。






―――― ねえ 貴方が 大切 なんです  
他人の重さを価値を貶めてなお、鮮やかなひとつの命が尊い
たった一人 貴方なんです



これが恋なのならば、知らなければ良かった。






拍手用でしたが、思いのほか長くなったのでこちらに収納。
きっかけは、これでした↓

【10時間以内に3RTされたら軍隊パロで怪我を手当てする雲綱を描きましょう。 ●ttp://shindanmaker.com/50883】

3RTされたかはともかく…。何の設定も決まってません;;;というか、シーン以外、何も考えてませんorz
魔が指しました出来心です。ごめんなさい
あ。吊り橋効果じゃないですよ!きっとですてにー!!(〆のコメントが甘くても……ねえ?)