Euforia-ユーフォリア-




【Euforia】 伊:幸福感



ホテルのロビーから、見送りのボーイたちには目もくれずタクシーに飛び乗った綱吉は、シートに深く腰を下ろしてようやく一息ついた。
一度落ち着いてしまうと、あとは目的地につくまでつらつらと取り留めの無いことを考えるだけ。
ああ、そうだ。今日のためにどうにか、時間を工面してくれた友人たちにも、後日どうにか休日を贈ろうと思う。
エアコンのきいた車内で、ハイネックのセーターの首もとをなおし、濃いブラウンのパンツから取り出した時計を腕に巻きつける。
確認した時間は、大丈夫。まだ余裕がある。
羽織る間もなく車に乗ったために、隣に投げ出したのは暖かそうなブラウンのダッフルコート。
いつもとは違う今日の自分が身に着けているものをもう一度見直しながら、ふっと笑う。
イタリアでこの職に就くまでは、もっと明るい色を着ていたのに。
ここ最近、そういえばかたいスーツしか着ていなかったと思い出す。
めっきり、落ち着いてしまったこの装いにあの人はなんというだろう。
ふと、袖口に鼻を寄せる。
ふわりと朝一でまとったコロンの香りが微かに漂う。
染み込んできそうな煙草の煙や、硝煙のそれは移っていないだろうか。
そればかりが気になる。

ヴェネチアにはいったのは、一昨日。
ニューヨークから一人そのままこの街にとんだ。商談で赴いた街で部下と友人に後のことを頼み、ふらりと旅客を装って。
今日、この街はある意味厳戒態勢といってもよかった。
「2人で出かけたいんだ」
家庭教師や常に傍についていてくれる友人たちにそう言った時、手配の方は任せてくれと二つ返事が返ってきた。
家庭教師ですら、楽しそうに頷いていた。
おめぇの為じゃねーからな、とにやりと笑って。

ヨーロッパ最大のマフィアのボスが単身イタリアを徘徊、なんて正気の沙汰じゃないのは分かっている。
だから、今回の警護体制は万全だ。
自分ひとりならいい、どうとでもなる。
でも、絶対に危険に晒したくない人が今日は、くる。
最善を考えるなら、止めればよかった。
しかし、そうしなかったのは自分の我侭か。


もうすぐ着きますよ。
と運転手に言われて、ふと外を見ると昨日利用したばかりのヴェネツィア・マルコポーロ国際空港がすぐそこに見えていた。
この空港へ、日本からの直通便はない。ローマでトランジットがあるはずだったかなと、つらつらと考える。
「デートですかお客さん」
「まあね、久々に逢うんだ」
これまで事務的なことしか喋らなかった運転手は以外にも陽気なおじさんだったらしい、もんもんとしている綱吉をそっとしておいたのか、最後のさいごに挨拶程度の軽口を交わす。
デート…ね。
そういえば2人で出かけるなど、何年ぶりだろうか。
思い出そうとしてみるが、記憶がおぼろげであまりうまくいかない。
幼すぎたのか、その頃はあたりまえすぎたのか。

空港の正面に横付けされたタクシーから精算を終えておりる。
「おや。景気のいい事で」
多めにイロの付いたチップに運転手が帽子に手をかけておどけて見せる。
「うん、お世話さま」
「よい旅を!」
車を背にして歩き出すと、心の中で謝る。ほんとにこっちの我侭で悪いね、なんか守備範囲外な仕事させちゃって。
精算の時ふと運転手の手に感じた違和感。いつも車のハンドルを握っている、と言うよりはあの小さなヒットマンの手に似た手だった気がする。
常に、銃を手放さないような元家庭教師のような。
友人たちの手回しは完璧だ。
ある程度のコースは事前に相談してあるといっても今日は、街全体がこんな感じに、根回しされているのだろう。
「給料弾むからさ…次あるかないか分からない親孝行のチャンスって事で、頼むよ」
誰にとも無く、両手を摺り合わせて拝むように呟くとゲートの方へを進んでいった。



門外顧問から直通のお電話です。
と、あいも変わらず紙の束と戦っていた綱吉に電話が来た。
何事かと緊張している部下を伴って、いい加減慣れればいいのに自身も厳しい顔で退出する獄寺。
山本はにや付きながら、同じように退出していった。
ボスと、門外顧問格別の実験を握る二人の会話など聞かせられるはずもない。

――ピッ。
小さな電子音が保留を解除する。
『つなよしいいいいいいぃきいてくれよ、なながぁなながあああああ!!!』
小さな受話器から、部屋中に響かんとする声にげっそりと肩を落とした。
奈々、奈々と連呼するこんなのが、門外顧問か。聞かせられるはずがない、まったくもって。
盗聴の恐れも無い回線でよかった。いや、盗聴されたところで…………。
これの下についてるって、バジル君やオレガノさんて偉大だよなぁ。
『父さんは、父さんは悲しい、かなしい!!!!』
話が読めない。
ああ、これは長くなるな。
そう踏んで、適当な書類にサインしつつある程度の事を固めたのが……2ヶ月前。







「あらあら、ツッくんたら随分大人びたのね!」
「そう、かな?」

空港で久々にあった母は、以前とまったく変わり無く柔らかな笑みと共に、年甲斐もなくこちらに無く大きく手を振っていた。
自分の母といえど、そうえばこの人は昔から、綱吉の小学校の入学式の時の写真からまったく変わっていないような気がする。
ピンクにも見える薄いベージュのの柔らかそうなコートに、綱吉が昨年送った淡いサーモンピンクのショールを首に巻いて、手には白にも近いクリーム色の上品な手袋。

きゃあきゃあとこの寒い外気も気にせずにゴンドラから身を乗り出すようにして二言めには「素敵ね!つっくん」とはしゃぐ母見る。
ヴェネチアは水の都。
アドリア海の真珠と謡われる美しいイタリアの都市。
幾つもの水路と、市街を二つに分けるようにS字型に流れる大運河カナル・グランデを黒いゴンドラでゆっくりと移動する。
青く青くどこまでも澄んだ海と空、輝く太陽。
イタリアは夏の国だと思う。
けれど、この街は別。
島内への車の乗り入れが禁止されているために、聞こえてくるは人々の声と、水上バスのエンジンの低い音、ゴンドラの櫂が水をはじく音。
ゴンドリエといわれる船頭たちが謡うカンツォーネや、口笛が水面を反射してどこまでもいってしまいそうな錯覚すらする。
島と運河と橋の街。
少し霞が漂うようなそんな日は、とても味わい深く冬もよく似合う。
「あら、仮面!」
「もう少ししたら、カルネヴァーレだから。謝肉祭だよ」
ショーウインドウにマスカレイドの、白いマスクが飾られているのを目ざとく見つけ奈々に説明する。
本当なら、この時期にあわせたかったのだが。真夏以上に、さらに仮装までした人で溢れるようなそんな日だけは避けてくれと、これだけは家庭教師から言われたため断念した。
治安は良いいが、張り巡らされた蜘蛛の巣のように広がる細い路地と運河に面しすぐに海洋に出られるという、潜入するにしろ逃走するにしろお互いリスクがあるこの街を、今回選んのは彼女のリクエスト。
どこの誰に狙われているか分からないのだ、綱吉は。
奈々も、綱吉の母と知れれば危険に晒される。
「でも、静かな水の都も素敵よ」
「母さん、元気そうで安心したよ」
ゴンドリエのガイドを訳すると、片手にもったデジカメでひたすら撮りまくっている母に苦笑をもらすと。それでも楽しんで貰っているようで安心した。
ヴィヴァルディの家に、マルコポーロの家に、溜息橋。
近くにあったバールでパニーニとエスプレッソという軽食で、昼食もそこそこにドゥカーレ宮殿にサン・マルコ寺院と鐘楼をせこせこと隅から隅まで歩き、鐘楼は上まで上って絶景を堪能し未だ体力の有り余る人に、もう感嘆の声しか上がらない。
「せっかく来たのだもの、しっかり見なくちゃ勿体無いじゃない」
至極もっともな事を言いながら、ヒールで歩き回るのだ。
ゴンドラに腰を下ろしたとき、綱吉の方が「疲れた」と口に出してしまった。
朝早かったからだろうか、夕暮れにはまだ時間がある。
40分ほど経った頃、サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会が見えてきた。
そろそろゴンドラの旅も終わる。
空を見上げれば、雲が先ほどにも増して厚くなってきている。
雨になるかもしれない。

「昼も軽くしか食べたないし、少しお茶にしようか?」
「つっくんもエスコート上手になったわね。」

パパには負けるけれど。とキャッキャしながら言う奈々。
パパって誰、パパって。

ゴールは、スタートと同じサン・マルコ広場近くの船着場。
お茶の場所も決めてある。奈々はたぶん気に入るだろう。
「カッフェ・フローリアンがいいわ!」
「そう言うと思ってたよ」
笑うと、一足先に下りていた綱吉は奈々に手を伸ばす。
その時、ふっと目を細めた母がとても印象的だった。
「ツっくんも男の子なのよね」
次の瞬間、手が重ねられるときにはもういつものようににこにこと笑っていたけれど。

広場に面した老舗中の老舗世界で最も古いカッフェに一歩足を踏み入れると、奈々はうっとりとしていた。
これがヨーロッパと言ってもいい、壁に天井に計算された装飾、華麗な絵画、店内の生演奏、調度も申し分のない洗練された店構え。
宮殿に寺院に、常にきらきらしていた奈々だがここに来てもそれはいかんなく発揮されている。
表現する言葉が、もう素敵しかないらしい。
以前から、少女趣味だったのは充分分かっていたから喜ばれるだろうとは思っていたが、ここまでだとセッティングしたこちらとしては非常に嬉しい。
さすがに寒いので、テラスではなく屋内の席に。レースのカーテンが掛けられた窓に面した席はよく外が見えたけれど。
ちょっとごめんなさい。と、オーダーしたものが運ばれてくる間、メールを打っている。
ついでに、カップとケーキを並べて「いいアングル!」といいながら一枚とっていたので添付もしたのだろう。
父にだろうか。
今はそんな仕草もほほえましいと思う。


「気に入ったみたいでよかったよ」
「ええ、とっても楽しかったわ!ありがとう、ツっくん。まさか2人で旅行なんてできると思ってなかったもの」
「父さんは泣いてたけどね」
「ふふ」

この店が発祥だと言われるカフェ・ラッテと目にも美しいケーキにご満悦の母は、始終楽しそうにしている。
その様子に目を細めて綱吉は思う。
離れて分かったことがある。
この人が、どれほど強くて、聡くて。
そして、父や、自分を甘やかしてくれているのか。
何も知らない母。
何も知らないことを、自分でよく分かっている人。
けれど、決して何も聞いてはこない。

「どんな事をしているの?仕事は順調?今はどこにいるの?」

普通に問えるはずの質問、けれど綱吉が答えに窮する問いを、決してしない。
きっと、父にもそうなのだろう。だから、徹底してそれを隠す。
嘘を嘘と分かっていてそれを責めず、信じてくれるひと。
馴れ初めは知らないが、今でもあんなに新婚夫婦の様なのに、よく父に着いていくと言い出さなかったものだ。
妻が、夫に当たり前のことを言えない。
母にも父にもどうしようもないジレンマがあった事を、この国にわたって漸く理解した。
心が繋がっていればいい。
分かっていても、物理的な距離はどうしようもない寂しさを呼んでくる。
それが、今はよく分かってしまう。

「お母さんは元気でやってるわよ?」
「え?」

くすくすと笑うと、いつの間にか眉間によっていたらしい皺をつままれる。
ポーカーフェイスは身に付けたつもりだったのだけれど。

「……」
「心配は親がすることなんだから、息子は好きなことしてればいいのよ。私まだまだ若いもの!」

適わないなと思う。

「それにね、時々若い男の子がご飯食べに来てくれるのよ!いいのに、お花やお菓子なんて気まで回してくれて。おかーさんってまだまだ隅に置けないでしょう」
「…は?」

両手を頬に当てて、ふふと笑う少女の仕草を普通にこなす我が母にも驚きながら、なんだその若い男の子って!?
なんとなく、当ててしまえそうな答えを否定したい気持ちでうっかり視線を落としてしまった奈々のバッグ。
きちんとたたまれた、綱吉がプレゼンとしたショール。その上に、揃えて置かれている手袋。
優しいクリーム色の品のよいそれ。
裾の部分を縁取る上品で控えめな装飾と柔らかいファー、調度手首の辺りにも少しだけ、きらきらと光るラインストーンで象られた模様。
ちらりと見えただけだが、内側にレースと刺繍。
見た目はシンプルだが、少し見れば手の込んだよい品だと分かるそれ。
なんとなく、奈々の趣味とは少し違うと思ってはいたが。

「さすがツっくん!いい勘ね。それ、恭弥君がくれたのよ」
「っぶ」

誰だそれ!!?
含んだエスプレッソでむせた。
近所にそんな名前の子居たかな、と考えた自身に罪は無いと思う。
イタリアの冬も寒いからって、くれたのよ。センスいいわよねえ、ヴァレンタインのお返しだったの!と嬉しそうにしている奈々に、そういえば母からのチョコレートはあの人経由で今年来た気がすると思い出す。
なんとか派手に吹くのはこらえたものの、未だ咽ている綱吉に一瞬怪訝そうな目を向けてものの、目があうとすぐに穏やかな笑みを浮かべたカメリエーレはなんとうか洗練されてるなぁ、と逃避。

「それにね。メル友なのよ」

と、最後の一言の時には。ほんとうに、口に何も入ってなくてよかったと思った。
旅先の恥は掻き捨てだが、こんなネタの様な恥は本当にごめんだった。
なんてゆーか、なんてゆーか。あの人何やってるんだ?

「母さん、ほんとに、すごいよね」
「羨ましい?ふふふ、リボーンちゃんとビアンキちゃんも時々メールくれるのよ」

深く突っ込んでは聞けないが。
凄い。
まったく持ってその一言に尽きる。あのビアンキはもともと仲がよかったからともかくとして、雲雀とリボーン?
伊達に、マフィアのボスの母と門外顧問の妻ではない。いや、だからこんな特殊な職業ができるのか……あれ、関係ないか

「あら、そろそろ時間かしら?」

百面相している息子を楽しそうに見ていた奈々が、手元の時計に目を落とした。
外を見やれば、サン・マルコ広場がゆっくりとオレンジから紺へコントラストを落としてゆく。
美しいなと、思う光景。
連れてこられてよかったと思う。
さて、明日はどうするか………。

「そろそろホテルにチェックインしようか。荷物、送ったんでしょう?」

今お茶したばかりだが、そうこうしている内にお腹もすいてくるだろうし、ディナーの時間にもいいだろう。

「ふふ、ふふふふふふふ」
「…………何」
「あのね、ツっくん。ここから先は大人のデートなの」

あ。
今、広場の隅っこの方から全速力で駆けてくる、見覚えのある人間が――――。

それを認めて、奈々が立ち上がった。
そういえば、さっきメールを打っていたか。あれは、この為のものだったのだろう。

「元気でね。お仕事がんばってね」
「ありがとう。母さんもね」
「ええ」

ふわりと笑うと、額に落とされるキスに目を細めた。
いつまでも、この人にとって綱吉は息子で綱吉にとっては、母。
ありとあらゆるもの、なにもかも関係なくずっとそうでりたいし、そうであってほしい。
だから、お互いに優しい嘘をつく。
またね。と手を振る人に、うんと笑うことができる。
最後に囁かれた言葉に、ありがとうと万感の想いを込めて。








「慌しかったですけど。しんみりするより、これくらいの方がいいんですよね?」

奈々の後姿を見送ったあと、片手で伝票を弄りながら呟いた。
彼女よりも早く、これを手で押さえた部分は上出来だ。今日一番の出来のよさだ。
窓の外では、ものすごい勢いで抱擁を交わしている父と母がいる。
いい光景だ。なかなか絵になるが…
(咽び泣くなよ…)
父親はあいも変わらずだ。


「明日は2人でフランスだって」
「息子はこれで退散です」

死角から現れて、当然のように綱吉の前に腰を下ろした黒いコートの人間。
昼を回った辺りから、付かず離れずちらついていた気配。
今日、この人予定大丈夫だったのかな。自分よりも忙しいような人なのに。
確かにリボーンは、護衛体制は万全って言ってたけれども。
そりゃもう、ゴンドラの先に見覚えのあるハリネズミがくっついてるのを見たときは、笑い出しそうになった。
それが装飾なんてそんなばかな!


「俺からのメールは3回に一回くらいしか返信してくれないくせに」
「じゃあ、今の3倍送ってくればいいよ」
「返信くれるんですか!」
「さあね」

ほら、行くよ。
と、手を差し出されて。
俺は拗ねているんです、とずっと手の中で丸めたり折ったりと遊んでいた伝票をちょこんとその差し出された手に乗せた。
呆れた目の雲雀に、けれど猫のように首根っこを掴まれ立たされて、そのまま手を取られる。





もう一度外に目を移すと、黄昏の空に鳩が飛び立つ広場に小雨が静かに降り出す。
そこにはもう、探す影はなかった。







『いつでも帰っていらっしゃい』

貴方がそう言ってくれるから、僕たちは見失わずにいられるのです。