「――何?」
「ごめんなさい。邪魔してしまいましたか?」
「そりゃ……そんな所にいられたら気にはなるよ」
「俺の後ろに立つな!てやつですね」
「なにそれ?」
「ああ、すいません。この手のボキャブラリーを貴方に求めたのが間違いでした」
半分だけ振り返った雲雀は、何か嫌そうに眉を寄せたがそれ以上は何も言おうとしなかった。
彼がこの手の話を持ち出すと、どうせ今もこっそりとワードローブ奥に積んである、碌でもないコミックスからの引用なのだろうと察せられる。
音も立てずにドアは開いたけれど、まさかそんな事に気付かない雲雀ではない。
そのまま、そっと閉じた扉に背を預けるようにして、動く素振り、出てゆく事も、こちらにやってくる気配もしなければ、雲雀が怪訝に思うのは当たり前の事だった。
まさか、綱吉に後ろからザクッと切りつけられるような心配はしないが、ただ後ろに立たれるのはなんだか落ち着かないのだ。
綱吉のプライベートスペースではある。
しかし、空調は完璧だとは言っても、彼の良く分からないこだわりで、このリビングと続きのダイニングスペースの方は、少し温度設定を落としてあるので、どうしたって出入口付近は少し冷える。
そんな所にいて、何が楽しいのか。
綱吉はふふっと笑って、ゆっくりと雲雀の背を回って、ローテーブルにトレイを降ろした。
ゆるりと湯気を立てた白いマグカップが二つ、それから最近気に入りの焼き菓子を皿に盛ったものが乗っている。
それらをセッティングするつむじを見ながら思う。
新聞を繰る仕草をしながら、頭の片隅で考えるがどうにも理由が見当たらない。
最近、あまり無茶な事はしていないし、そもそも雲雀とて年の瀬は内勤というか書類仕事に忙しくて、外どころか自宅に戻る時間も惜しいほどだった。
ビジネスにしてもプライベートにしても、綱吉が機嫌を損ねるような事をした覚えも無い。
忙しさにかこつけて、電話だのメールが疎かだったとなじられるのなら可愛いものだが、付き合い始めて十年を越えた辺りで、お互いの生活サイクルを季節、年単位で把握してしまえるようになったので、そんな痴話喧嘩のようなものも、しなくなって久しい。
湿っぽい顔でジトッと無言で見詰めてくるという、後ろめたい事がある身には実は結構堪える、卑劣な戦法は大人になってから覚えたものだ。
しかし今雲雀は潔白だった。
「お手上げですか?」
「僕たちは今喧嘩でもしてたんだっけ?」
それだったらいけない。忘れていた分も合わせて、数倍にして買ってやらなければならない。
二人には大きいソファ、いつもより少しだけ距離を取って座った綱吉が今日も、毎回、少しずつ、生意気になる。
思いあたる事が何もない、そんな時に限って指摘された何某かは、ハッとする様な事が多かったので、そんな喧嘩の勝率は低いのだが。
「まさか!サマーバケーションは研究室に籠り切りだったし、誕生日はほんとに一晩しか一緒にいられなかったし、待ちに待ったクリスマスは顔も出してくれなかった、恋人とですよ、この年明けに僅かながらも漸くゆっくり二人きりで過ごせるって時に、誰が好きこのんで喧嘩なんか」
案の定、というか、意外と言うか、敵の舌は良く回った。
「………」
「何ですか?」
「いちいち棘があった気はするけど、それ別に僕のせいだけじゃないよね?」
「ええ。総合的に見ると五分五分で痛み分けかなって感じですよね」
手渡されたカップからは、甘ったるい香りが湯気に乗って上ってきた。
口を付けると、ちょうど飲みやすい温度にまで下がっていて、いい加減声を掛けて良かった。甘いものは嫌いではないが、冷え切ったココアなどは飲みたいと思わない。
「お正月っぽく、みかんもありますよ?」
「いや、いいよ」
だいたい食べ合わせとして、ちょっと雲雀は躊躇する。
自分で言いながらみかんでは無く焼き菓子にまで手を伸ばしながら、綱吉が言う。幾ら甘さは抑えて淹れたといっても、甘そうな焼き菓子まで良く食べれるものだ。
せっかくだからとカップに口を付けると、思ったよりも甘みは抑えられていて、ココアのほろ苦さが口に広がった。
ただし、ミルクは多め。
良い塩梅だなんて、口元を上げたのを綱吉は見逃さなかっただろう。
考えてみれば、雲雀も腰を落ち着けてゆっくりできるようになったのは随分と久しぶりで、手渡されたカップの暖かさに、そこに満たされたやわらかい色の液体の甘ったるさにも、柄にもなくほっとしてしまった。
これが日常と言うほど一緒にいる相手ではないけれど、そこにいるだけで幸福だとか、この雲雀が言いきれてしまうくらいには、彼がいる事が当たり前。
綱吉が笑っている。気付いていたけれど、雲雀は目を伏せた。
さて。それはいい。
良くは無いが、この状況なら機嫌を損ねていつことなどありはしないのではないか?
おめでたい頭の中が自分ひとりだと思うと、大層恥ずかしい。それはもう。
しかし、やっぱりそれも違うだろう。
先ほど上がった昨年のあれこれはといえば、本人も言うとおり所謂痛み分け。確かに互いに不平不満はありはするが、今更蒸し返すほど子供でもない。不満は確かにあった、しかし、何度だって言うがお互いに、だ。
「―――ああ、もういいよ。お手上げってことで」
「なんです、そんなに気になったんですか?」
クッキーの欠片を口に押し込みながら、意外そうに大きな瞳を見張る仕草は、スーツを着ている彼よりも幼く見える。いつもそんな風に無防備でいればいいのに、思った事がないわけではないが、この瞬間に愉悦を覚える様になって久しい。
「で、なんなの?」
「別に、大したことじゃないですよ?」
「何、無理やり口割らされたいの。へえ、今日はそういうのがいいんだ」
「いやいや。よくないですよ、良くないですから!」
綱吉は、楽しそうに雲雀の口元が弧を描くのを見逃さない。
そもそも互いに心理状況くらい、隠されていたって読める。綱吉の機嫌が悪いだとか、そんな事は間違っても無い事くらい分かり切っているくせに。このまま、行くとこまで済し崩しに……なんてぼんやり思っていたから、まさか突っ込まれるなんて思ってなかった。
「ただ、ね。恭弥さんの背中好きだなって思ってただけです」
「……は?」
「自分のセリフながらそんな、微妙に間取ってきょとんとした顔で首傾げられると、恥ずかしいんですけど」
「その思考で既に十分恥ずかしいよ」
「煩いなあ。嬉しいくせに」
「うん」
「やけに素直ですね」
「君が、可愛いからとか言ってあげようか?」
「喜んだりなんかしませんよ」
「ご機嫌取るならもっと上手くやるさ」
くすくすと笑いながら、いつもの距離にまで、すぐ隣にまで身体を滑らせた綱吉が、当然のように雲雀の肩に頭を乗せる。瞬間はいつも慣れなくて、首筋を撫でた柔らかい髪の感触がくすぐったい。
「前を歩いていて欲しいとか、でもあなたの前を行ってみたいとか、いろいろと考えてみたんですけどね」
「それで?」
ココアの最後の一口を口に含んで、いったん言葉を切る。
相槌をうって、やんわりと先を促す。けれど、続く言葉はもう知っている。
「前にも、後ろにも、やっぱりいてほしくないなあって思います」
「やっぱり、君生意気になったね」
「お陰さまで」
「それじゃあ、今年もちゃんと隣にいるんだよ?」
「勿論、また一年宜しくお願いします」
今はもう、憧れでも目標でも、まして畏怖だけの対象では無くなった人の隣はやはり心地いい。
今年も、去年と同じように、また次の年も、その次も、この先ずっとそうしていたい。
ゆるされる、唯一でありたい。
「―――僕も、君の背中好きだけどね……」
「あんまり甘やかさないでください」
インテでの配布ペーパー加筆修正。
明けない夜は無く、大切なだれかと一緒に暖かい話をする日常と、温かいカップを傾ける穏やかな日々の幸福。