「いつまで草食動物の戦い方をしてるんだい?」
そんな言葉を投げかけて、ふと考える。
そういえば、あの戦闘スタイルを彼が身に付けてきたのはいつだったか?
我武者羅に突っ込んでくる綱吉の攻撃をかわすとも無く受流して、間合いを取る雲雀。
実践戦闘さながらに長時間に及ぶ訓練にも、綱吉は弱音をはかなかった。
染み付いた諦め癖は鳴りを潜め、漸くましな目をするようになった、と戦闘狂の雲雀をして呟かせたのを聞いていたものは誰も居ないけれど、その成長はめまぐるしい。
けれど足りない、まだ足りない。
充分であるはずが無い。
未来のボンゴレを窮地に立たせまさに壊滅寸前の四面楚歌にまで追い込んだ相手なのだ、未知数の相手に立ち回るための力がこの程度で足るはずがない。
綱吉自身、本当は感じている。
この未来の世界の仲間たち。
彼らが自分に寄せてくれる思いが揺るぎ無いのは、疑っていない。
けれど、彼らの信頼を得るだけの力を自分が持っていないのも、また確かなのだ。
10年積み重ねた経験の重みを理解できるわけは無いけれど、しかし何もかも託されるほどの力を持っていないことを。
ボスへの絶対の信頼。
そんな物がほしいわけではない、そんな力を自分が持てるとも思わない。
しかし、分ってしまう。
ここに居るだけで、この10年後の世界。
獄寺や山本はともかく、笹川了平やジャンニーニ、この世界で接した人間はそんなに多くは無いとおもう、けれどその彼らが自分に寄せるもの。
未だ中学生の綱吉が負うには重過ぎるその事実。
形にならない……ひたひたと―――ボンゴレリング戦の辺りからゆっくりと綱吉の心に忍び込んだ陰。
その影が浮き彫りにされて。
それが、酷く怖い―――。
ミルフィオーレの脅威。
生か死か、よしんば生き残ったとしても、元の世界に帰れるかどうかも分からない。
未だかつて無いほどに追い込まれたこの状況で、けれどそれだけを考えていられれば良かったのかもしれない。
山本や笹川が見せた年上の気遣い。ほんの一瞬の邂逅だった獄寺も、自分の中に居る彼らより、ずっと大きく大人になっていた仲間たち。
彼らが今の綱吉に見せる大人の優しさ。
皆、今の彼が中学生の沢田綱吉であると頭では理解しているのだ。
しかし、裏腹に彼らが意図せずに綱吉に向ける、綱吉が知らない形の信頼が、この危機的な状況に反映されるように浮き彫りになってゆく。
それが今の綱吉を追い詰める。
「ねえ、随分余裕だね。他の事考えてられるなんて」
「――――っ」
不意に、至近距離で掛けられた声に反応が一瞬遅れた。
上ではない、左右ではない…そう思った瞬間、突き刺さるような殺気を隠しもしない雲雀の目と、目が合った。
いつの間に間合いを詰められ、あまつさえ懐にまで飛び込まれたのかすら分からない、けれど考える暇も無く既に体が動いた、受身を取るために。しかし、そんな悠長な時間を雲雀が与えてくれるはずも無く、臓腑に響く衝撃。
大柄ではなく、線の細いはずの雲雀によくもこれほどの力があるものだ。吹き飛ばされた身体をどうにか、空中で立て直して膝のクッションを利用して、出来るだけ足への負担を軽くしつつ衝撃を緩和させる。
それでも、後方へ引っ張られる身体。どうにか止まったけれど、しかしその反動を受け止められずに膝をついた。
腹へのダイレクトな衝撃に声も出せずに、ただ息を詰めて痛みをやり過ごす。
ただ、目だけは相手から逸らさずに。
唇を噛み締めて、きつくきつく――。
「僕も暇じゃないからね、今日はもう帰る」
「え――っちょ、ちょっと雲雀さ…ん――――っ…」
暫く、膝を突いて息を詰まらせながらも視線だけは決して外そうとしない綱吉の瞳を、剥き出しの殺気を込めたまま静かに見つめていた雲雀が、ふと力を抜いた。
その瞬間、目を見張ると同時に死ぬ気モードが解けた。
同時に全身の筋肉が弛緩してゆく様が綱吉にもわかる。
気力だけで戦っていたのだ。
身体がここまで付いて来ている事が不思議なほどだが、雲雀は自分から切り上げる事はしなかった。
いずれ綱吉自身が自力で動けなくなるだろうと踏んだからだ。
しかし、それでもいつまでも粘る子供に些か焦れたのは確かで、結局腹にダイレクトに一撃を加えるというとどめを刺したのだが、膝を付いてなお、唇を噛み締め痛みを耐えながら、決して自分から逸らされない瞳に、結局自分から引いてやることを決めた。
「それじゃあね」
そう言って踵を返したその時、反応しようと思えば出来た。避けることも、振り切ることも。
けれど、その手の弱々しさとは別にその瞳に捕まった。
「まだ、まだいけます!」
掴まれた手首、するりと滑り落ちそうなその手にきつく力が込められて来るのが、伝わる。
強く、強くなりたい―――。
そう語る瞳に隠された怯え、そして今はまだちらつく程度の、孤独。
雲雀の記憶に残る、この子供と同じ澄んだ琥珀の色をした青年が、時折見せたそれと同じものをこの子供が今、垣間見せる事の残酷さ。
骨が浮き出るほどに力の込められた小さな手を、縋る者のそれだと錯覚する己の滑稽さ。
「ねえ…随分追い詰められてるよね」
ふっと、小さく息をついて、掴まれた右手をそのままに床に膝を突いた綱吉の正面に雲雀は屈んだ。
え?と問い返す間もなく紡がれる。
「君の目的は何?」
「何って、ミルフィオーレを倒す事に決まってるでしょう!」
淡々と問いただす雲雀の問いに、綱吉は一瞬怪訝そうに眉をひそめた後、返した言葉。
語尾の強さに、苛立ちが混じっている事を無視して雲雀は更に問う。
「それは、君の目的じゃない。君にとってそれは優先されることじゃない」
声は、どこまでも単調で、何の感情も乗せられては居ないけれど、それだけでどこか落ち着いてゆく心を綱吉は感じた。
ああ、そういえば、この人は何時もどんな時も声を荒げたりする事がなかったと、そうぼんやりと思い出す。
「君の、目的は何?」
更に繰り返される。
その声に、そっと目を伏せた―――。
「俺たちの世界に、帰ること……です……」
伏せた目の奥、なんだか無性に熱くて込み上げるものを必死で押し戻した。
その声は弱々しくて、聞き取れたかどうか分からない、けれどその答えに雲雀は小さく頷いて。
そして、言葉を続けた。
「終わっているんだよ、頭を取られた時点でね。結局今のボンゴレは残党でしかない」
「……だけど!!」
「今君が守るべきものは、この時代のボンゴレでも、このアジトでも、ましてこの時代の人間でもない」
「………」
「ボンゴレ狩りの中で、初代の血を引く家の者が最優先で消されていった。この意味が君にはわかるだろう?」
「――――っ」
「あの血の試練に、君がその力を開花させる――戦力を上げる以上の意味が今ここであるの?試練の中で歴代たちから認められる事、組織の士気を上げる事に結果的にはなるね、けれど空席を埋るにはあまりにも君はまだ幼い。実際、長老たちの統率は取れていない」
綱吉の言葉を奪うように被せられる声。言葉を遮った雲雀の声が、いつもより激しさを帯びている事に綱吉は驚いた。
「…ヒバ…リさん、だけど!」
「むしろ…帰った君が、何を成すかでしょう?」
「……」
「何を利用しても、ここで何を踏み台にしようと…………。ねえ、君はまたこの未来を招く?」
いつものトーンに戻った雲雀の声。
自分の本当の居場所に帰れ。と、そう言う。
入江正一の抹消。すべてはそれでもとに戻る、獄寺のメッセージを信じるならそれだけでいいはずだ。
それだけを考えろと言う。
死力を尽くしてまだ足りない避けることの出来ない決戦を前に、それを目の前の男は言う。
狙うのは、敵の総大将首ではないと。
それは……………。
――ボンゴレであるがゆえに巻き込まれた闘い。
けれど、今の綱吉にボンゴレとして…10代目ボスとして負うもの等無いと。
「目的を前に死んでゆく者は、身を守る事も出来なかった自分の責任だよ」
「……ヒバリさん、は?どうして、ここに居てくれるんですか?」
「僕は、いつだって僕の目的のために動くだけだよ。降りかかる火の粉は振り払う、それだけだ。隣の家の火事にまで興味は無い」
雲雀は言った。
この時代で、綱吉がボンゴレ10代目であることに意味はないと。
ふと、胸の中の重い何かが少しだけ中に浮いたような、錯覚を綱吉はした。
完全に消えたわけでは無いけれど………。
急に、視界が覚束なくなってゆく。
雲雀の、きっちりと着込まれたダークスーツが揺らぐ。
そういえば。
自分のためにしか動かないと言う、この人が未だ守護者であり続けたことの意味はなんだろう?
不意にそんな疑問が浮かんだが、纏まる前に思考が鈍る。
「積を負うべき人間はもう亡い。君は君の目的だけを追えばいい」
嗚呼。
あの雲雀が、自分にこんな慰めのような言葉を掛けてくれる。
この時代の自分たちは、今とはきっと違った関係を築いていたのだ。
そう思う心に、届いた言葉。
安堵した。
けれど
―――君じゃない
込められたそのメッセージに、どこか胸の最奥のまだ自分でも覗いた事の無い柔らかい部分が、ツキリと痛んだ。
そんな、そんな気がした。
知らず、瞳から零れ落ちる雫とは裏腹に幾分穏やかになった綱吉の表情を見ながら、するりと今まで掴まれていた右手から小さな温もりが滑り落ちていったのを雲雀は感じる。
傾ぐ身体を、その右手だけで支えて、溜息をひとつ落とす。
預けられた身体の重みが、完全に気を失ったのだと教えてくれた。
彼は気付いただろうか?
否、いつか気付くだろう。
彼の心の暗い部分を暴くような問い。それが少し摺りかえられた事に。
その歴史に、血に刻まれた怨讐を、自分が壊してやるとまっすぐな心で叫んだ子供。
けれど、それが夢物語だと知るだろう。
何度も、唇を噛み締めて耐える事を、どちらを選んでも絶望の二者択一の選択を迫られるだろう。
摘み取るはずものの、根の太さと業の深さ、そして根を下ろす大地の醜悪さを知るのだろう。
外的にはそれらを、内的にはファミリーの名の重圧と、抱え込む命の重みに苦しむ日が来るだろう。
ファミリーの絶対者、組織の法、神として君臨する孤独。
妄信にも似た敬愛をその身に受ける事の止まない苦痛を。
やがて、知るのだろう――――。
過去で未来を変えろと、そう言った。
けれど、雲雀には解っている。
例え、この未来を選ばなくとも綱吉が、今、彼が一番恐れるものを、背負って行くことを。
同じものの欠片を今持っているこの子供。
これは、確かにあの青年に成るもの。
解っていたはずのこと。
まだどこかで、受け入れられない何かを抱えていた雲雀に突きつけられた現実と未来。
この未来が清算されたとしても、きっと――――
「君は、ここで10年分歳を取ってゆくのかい?」
クスリと、自嘲気味に笑って、意識を手放した綱吉の髪を空いた手で一撫でする。
彼はもうボンゴレ10代目だ。
らしくもなく口にしたのは気休めで、彼自身がボンゴレの後継者たらんことを認めた時点で継承された。
彼が無事で、彼を大空と認める守護者を手の内に揃えた。
その事実がどれほど大きな事か、彼の存在がどれほどの影響を及ぼすか、彼は知らない。
血に認められ、リングを御す者。
過去も未来も無く、その存在が至高。
けれど。
10年。
漸く折り合いを付けることを覚えた事に、今絡め取られている時間なんて無いだろう?
得体の知れない不安を紛らわすために無理をおして突っ込んでくる。
その姿はどうしても重なるのだ。
雲雀は何度彼に言っただろう、そんなにも苦しむなら捨ててしまえばいいと。
その雲雀の視線をまっすぐに受け止めて、「ごめんなさい」と呟き首を振る彼を何度見ただろう。
……そんな君に僕の時間なんて、上げない。
だけど。
そんな彼だから、そんな彼だからこそ――――
「今日はもう宜しいのですか?」
連絡通路を歩く雲雀の背後から掛けられた言葉。
何も応えが無いのは何時もの事なので、特に気にする風もなく斜め後ろに付く草壁を、雲雀は一瞥するだけ。
視線だけでもくれたのは、こんな声の掛け方をされるのが珍しかったからだ。
「今日は室内も冷えますから。」
「………」
「あまり余裕の無いエネルギーをトレーニングルームにまでまわしていなかったはずですし」
「…哲」
「へい」
「上着、あそこに忘れてきたから拾ってきて」
「拾ってくるのはそれだけでよろしいので?」
射抜くような雲雀の視線にも、口元を上げて笑む余裕を見せた草壁は、彼には珍しく白のワイシャツ一枚の雲雀に背を向けて元来た道を引き返す。
届けておきます、と言い残して。
ねえ。
この腕で支えた身体の軽さに
あの年月の重みと
やがてくる未来を見たよ。
そう言ったら君は笑ってくれる?
さあ、この現実を変えて見せて