何度か確認して頭に入れたメールの文面を思い出しながら、大型書店を通り過ぎて信号を一つ渡る。
大通りから一本細い脇道に入ったら、そのまままっすぐに……。
覚束ない土地勘に不安は覚えたものの、目当ての店はすぐに見つかった。
如何にも彼が好みそうな、若い学生の多い表通りの店では無く落ち着いた雰囲気のカフェ。
……否、待ち合わせ相手が自分だったからわざわざ探してくれたのだろう、以前から全く変わないそういうマメさには頭が下がる。
当然、彼はもう店内だろう。
待ち合わせの時間は数分先に迫っていたし、はやる気持ちはあったけれど少しだけ立ち止まって今日届いたばかりの新しい上着の襟と、そして背半ばに流れるまでに伸びた髪に手を掛けて手早く乱れていないかチェックする。
「…………何やってるんでしょうね」
友人である少女に言わせてみれば『そういうの、世間じゃ乙女回路っていうのよ?』とでも突っ込まれそうな思考を振り払うと、頬を縁取る髪に指を掛けたまま漏れそうになる溜息を呑みこんで直斗は漸く店内へと足を踏み入れた。
「お待たせしました」
時間は午後三時を少し過ぎた頃。
流石に空席は見当たらない店内、待ち合わせている旨をウェイターに告げると、明るいオープンテラスへと案内された。
店内よりは空いたテーブル、所々植物が配置されて死角になった白いパラソルの下、文庫本を捲りながら頬杖を付いている見知った姿はすぐに見つかる。
視力矯正と言うよりは、色素の薄い眼の保護のために掛け始めたという眼鏡は懐かしい思い出のそれとは少し違って、グレーがかった細めのメタルフレーム。
眼鏡に掛った前髪は少し伸びていて、何となく前回会った時よりも大人びて魅せた。
こういう変化に目聡くなるのは、それだけ会えなかった証明なのだろうか。
寂しさが無いと言ったら、嘘になる。
ふと上がった視線が、こちらを認めて手を振るまでの時間は僅かなものだった。
「道、分かりづらかったか?」
「いいえ。すぐに見つかりましたよ、実家を出るのが少し遅くなってしまって。お待たせしてすいませんでした」
「それならよかった。時間だってぴったりだし」
「僕だって、一度くらい待たされてみたいですよ」
「気にしなくていいよ、どうせこっちは気ままな大学生だからね」
「きままって……」
ウェイターによって静かに引かれた椅子に腰を降ろすと、アイスコーヒーを注文して一息付く。
日差しは温かいし、風も爽やかだ。昼過ぎまであまり天気が芳しくなかったので、テラス席は敬遠されたのだろうが今は心地良かった。
少しだけ、秘密の話をするのにも都合がいい。
この春に、二人ともまた一つ学年を重ねていた。
仕事の名目で公休扱いにしてもらえる事もあったけれど、何かにつけ欠席をする事の多かった自分もめでたく最終学年へ上がったし、彼も危な気なく難関大学を突破していた。
気ままだとか言う割に、一年目から色々と科目を詰めている事も知っていて常にレポート類を抱えている事を心得ているから、彼の言葉をそのまま額面通り取るのは危険な事だなどと言うのは昔に学習済みだ。
「直斗ほど忙しい学生なんかそうそう居ないよ?」
「読心ですか、それとも僕はそんなに読まれ安いですか」
「さあ、どうだろうね」
ふふっと笑ういつもの姿に、結局はぐらかされるのも、もういい加減慣れた。
食い下がるだけ、無駄だ。
「………なんですか?」
「なんですって、それ、聞くの?勿論、似合ってるなぁと思ってるだけだよ」
「そういう事じゃ…!……もう、新しい学校の制服ですよ」
小首を傾げる姿に、質問に質問で返すなと言ってやりたい。
言ってやりたいが、酷く嬉しそうにニコニコと笑っている姿に、気恥かしさも手伝ってそうも言えない。
調度運ばれてきたアイスコーヒーに、ストローを突き挿す。
一口含んだ香りの良さに、ホットでも良かったかと一瞬悔んだ。
そんな事でも考えていないとやってられない。いつもはほぼ十分前には到着している筈なのに、今日に限って待ち合わせの時間に遅れたのは他でもない。
最後まで、これを着ていくか悩んでいたからだ。
一緒に買い物に行く度に、りせが自分のものよりも熱心に選んでくれる、女の子らしい服を着てくる時も緊張はする。
しかし、それとはまた違った気恥かしさがあった。
『大丈夫!良く似合ってるよ可愛いっ』彼女の太鼓判があるだけで、抵抗と言うよりは恥ずかしさと戸惑いが拭えない装いも心強かった。
しかし、今回はまた事情が違う。
「始めはスーツかなって思ったんだけど、校章付いてたしね。直斗は細身だし背筋綺麗だから、テーラーカラー良く似合うよ」
息を吐いた姿に、何をが彼の気をよくさせのかは分からないが、やわらかな声がかけられる。
まかり間違っても、似合わないなどと扱下ろすような人では決してないが、間違いなく 世辞ではない賛辞に、ホッとしたのは事実だ。
胃に冷たい液体が広がるのを感じると、多少は落ち着きもする。
「本当は、女子の制服にしようかこれでも真剣に悩んだんですよ」
「それはそれで嬉しいけど、どうせ動きまわるんならパンツの方がいいだろうしね、ある意味俺も安心なようで……うーん」
「はい?」
「ああ、いや。解ってると思うけど、今回もあえて言うよ。出来る限り無茶しない事、どうせするだろうから無謀な事だけは単独でしない事、独りで抱えないで周り頼る事……すぐ駆けつけてやりたいけど、そうも出来ないし。今は俺も普通の学生だしね、心配してるって事は覚えておいてね?」
「解ってます、先輩に御心痛お掛けするのは忍びないですからね。大丈夫ですよ、早く終わらせて、僕も流石に学生の本分に本腰入れないと……これでも、受験生ですし」
高校三年生といえば、進学の事を真面目に考える時期だ。
否、三年からでは遅い。
このまま探偵として独り立ちと言う選択肢も、無いではないが独学では限界のある事を専門的に学んでおきたい。
それに、自分の中のキャパシティの狭さを痛感して以来、歯がゆさしか感じたことのないモラトリアムに、掛け替えのない価値を見出せる今だからこそ自分には必要な時間でもあるだろう。
依頼が来るのは有難いことだ。
けれどこちらの事情で世情は動いていない。
それでも今回の件が片付いたら、以降は控えるつもりでいた。
この時期に転校を繰り返すのは良くないが、長期休暇までに片付いたらこちらに戻って準備をするつもりで。
できれば皆で八十神高校を卒業したかったが、目指す学校、学科、加えて目の前で笑っている恋人と同じキャンパスを歩きたいと望むなら、対策とノウハウを持っているこちらの進学校に戻る方が有利だろう。
もう少し全国模試の成績もあげておきたい。
「八高、皆で卒業したかったってのは良く解るよ」
「あ!そうですね、先輩も………雪子先輩たちを送りだす時、皆で号泣してしまいました。泣かないって決めてたんですが、りせちゃんは仕事が忙しくなってきましたし、僕はこういうことになってますし……寂しいものですよね」
「それで、お別れじゃないよ?」
「勿論解ってます。先輩方や巽君も小西君も松永さん、堂島さんに菜々子ちゃん……皆さん応援も心配もして下さいました」
「うん」
俺だって君が依頼受ける度に心痛めない事はないよ、と首をすくめる姿に苦笑する。
それでも、止められた事は一度も無い。どれほど危険だろうと、誰かが困っているのだと言われたら力になろうと決めた。受けた依頼を断る事は決してしない、その矜持は棄てた事はない。
自分の根本を形作るものを確かに理解してくれている彼だからこそ、何時だって後押ししてくれる。
一年前に手に入れたこの安堵感は、こんなに大きい。
「今はたいした手伝いできないのが歯がゆいけどね。まあ、受験対策くらいは任せてよ戻ってきたら敏腕家庭教師が参りますよ」
「言いますね。受験するの僕なんですよ」
「だからこそだよ。直斗の性格は良く解ってるから、何させたって手抜かないだろ?お受験対策だってやりやすい」
「それで、落ちたら責任はとってくれるんですか?」
「そりゃあ喜んで、24時間付きっきり体制で」
「現役合格してみせます」
「それは、残念だな」
失礼なことを言ってくれた気がする。
「どうしました?」
不意に、ふっと視線がそれた気がして問うていた。
見咎められた事を、一瞬ばつの悪そうに銀灰の眼を細めた仕草も見逃さない。
「あー…うん。いや」
「赴任したら、暫くお逢いできませんし禍根が残らない様にきりきり喋ってください」
グラスに付いた冷たい雫を払って、またストローを口に咥えると観念するまで譲らない姿勢を見せる。
いつものらりくらりと交わして、交わすどころかとんでもない反撃をしてくれるので、言い淀むというか困った顔を見るのは新鮮でいい。
それこそ口に出さないが、機会に恵まれる度に思う。
嬉しそうな顔をしていると指摘されるので、隠せてはいないらしいが大いに結構だ。
「直斗は転校だの仕事だの受験で忙しい時に不謹慎だけど、頻繁に会えるのはやっぱり嬉しいな、と思って」
「―――ッ…は?」
確かに、彼の現住所と自分の実家は距離はあるといっても都内近郊のはなし。
稲羽市との距離を考えれば、まったく問題にならない。
頻繁に会うことも、互いに負担なく可能。だから、受験勉強を見てほしいという小さな我儘も言えた。
「飲み物むせるくらい意外?」
「不謹慎、と評するかはともかく。その感慨は至極当然じゃないですか?」
腕を組んで、ふむと何を納得したのか。
いつも理攻めなのに時々くる直球は凄く心抉られて本当に、困るとか何とか訳のわからない事を呟いている。
物理的な距離については、二人とも仕方がないと割り切れていたはずだが、心情はまた別なところにあることをお互いに思い悩む一年を過ごした。
素直な感慨だと思うのだがどうだろう。
何か言っただろうか?
わからないという表情をすれば、いいんだよとまたはぐらかされた。
それよりも、と嫌に真剣な顔をつくる。
目もとで揺れる銀の髪がきらきらと午後の光をはじいて眩しい。
「どうか、しました、か……」
「また、少し伸びたなと思って。ぐっと雰囲気変わるから、気が気じゃない」
「それは、お互い様ですよきっと」
「え、今日は凄くサービスしてくれるよね。ありがとう。うん、そうだね」
「う、煩いです」
唐突に視線を軽くまわりに巡らせる、脈略の無い行動。
首を傾げたその時、視界に影が落ちる。
パラソルのそれよりも濃いその中で、さらりと頬を流れた髪を一房すくいあげたのは身を乗り出した目の前の青年。
昔から、随分と気に入られていて隙あらば触れてくる。
嫌だとは思わない、むしろ心地良いけれど一目があるところではいただけないと視線で講義するが意に介した風では無い。
少し、風向きが変わった気がする。
髪は、随分と伸びた。
ようやく、肩を覆うよしも少し長いくらいには。
少し癖のある猫っ毛に近い髪質では、この長さになるまでおさまりが悪くて朝から苦労したものだ。
以前の自分を知っている人々も、似合っていると言ってくれるが、やはり彼に褒められるのはどうしたって心躍った。
『伸ばしてみたら?』
そう言ってくれたのは誰だったか、目の前の彼だったか、親友であるりせか、女性として憧れた雪子だったか、その全てだったかもしれない。
ただ、決めたのは自分だ。
見た目からこだわりたい訳ではないけれど、無理やり男の格好をしていた歪な過去がある。
否定しようとは思わない。
あの頃と逆の事を、と考えた訳でもない。
精神の力とはなんと大きいのか。
受け入れたからか、もしくは別の要因か……一年で、少し歪だった身体は本来の性らしいラインへとゆるやかに変わった。
今はそれを隠す事も無もない。
手入れされた長い髪は、どうしたって女性らしさを彷彿とさせる。
それでも、まだ男子の制服だし。
可愛らしい女の子の洋服を平然とは着れない。
それが、今の自分なのだ―――。
どんな風になりたいだとかは、今はまだ漠然としている。
けれど、もう偽るものは何もない。
何もかも受け入れてもらえる、どんな時も必要とされる、そういう自信をくれたのは間違いなく目の前の人で、胸を張って今の自分として歩いて行くのが精一杯の応え。
「君は、少し目を離した隙にどんどん綺麗になるから」
「………は?」
「だからね、早く帰って来てねって事だよ」
まずいな――――。
心の隅で、呆れた自分の声が聞こえた気がする。
その声に微かに笑って、本当によくぞ変わったと同意する。
仕掛けられようとしているトラップは見えている。幸いに犯行現場は相手が整えてくれている。
捕まってしまって、今更逃げようがない事も。
簡単だ、少し。
ほんの少しだけ、上を向くだけで、それだけでいい。
「―――――――っ」
珍しい。
本当に、珍しく目を見開いて固まった姿に、湧いてきそうな後悔が霧散する。
ただ、唇に微かに残るやわらかさと温もりが掻き立てる羞恥に早口に言い放った。
「行ってきます!すぐ帰ってきますから、待っててくださいね」
小説で、直斗の髪が長いと言うので。
八高卒業させたいなとか、絶対公衆の面前とか彼女はダメだろうとか思いつつあえて選んだ選択肢。
そうです、かてきょーさせたかっただけです……orz
此処までお付き合いありがとうございました。
「女子の制服も用意したの?」
「……一応は」
「今度はそれも着て見せてね」
「その頃はもう、ここの学生じゃないですよ。とんだコスプレじゃないですか」
「あー、とうとうそんな言葉を覚えて……」
「………」
「期待には応えるよ!」
「卒業まで向うの学校に居るか、八高に戻りますね。じゃ」
こんな、ギャグ仕様もありました。