それはそう遠くない過去の話





 ――サァ……



 冷たい雫がアスファルトを静かに打ち続けている、止む兆しはない。
 


 地下出口の階段を上り切って、一息つく。
 見上げれば、寒々しく重い鈍色の雲がいっぱいに広がり、空を覆っている。出掛けには降っていなかったし、天気予報も曇りの予報だった事を覚えている。
 雨脚は強くなる一方で、電車で小一時間の距離を出てきたというのに、ついてないなと独りごちても現状は変わらない。

 自宅で調書の作成を整理をしてしまおうと、うっかりと今日持ち帰ってしまった書類に、それから数枚のデータディスクを恨めしく思った。私物のモバイルパソコンは軽量型だが、しかしそれに加えて今日はファイルを四冊もつめたブリーフケースはいい加減腕をだるくさせた。

 知らず漏れそうになった舌打ちを、必死に胸に沈める。


 そんな自分がどうしようもなく、嫌なのだ。

 視線を落とせば黒いバッグを持つ白い手が見える。
 暦の上では春といえども、まだ二月が終わったばかりの雨、昨日よりもぐっと冷えた気温がそうさせるのか、紙のように生気を感じさせないひ弱な手。
 小さな、子供の手---それが、今の自分なのだ。

 数日前の事だ。義務教育から開放された。
 待ちに待った。
 漸くだと思った。
 これからは、子供だと、ただそれだけの理由で携わる案件を制限されることもなく、頼んでも居ない庇護の下に置かれることもなく世間に自分の実力を示せる。

 そう思うのに、そのための努力を惜しんだことなど一度としてないのに、どうしたってこの手が邪魔をする。


 望んでなんていないのに。
 けれども、同じくらい、望まれても居なかったのかもしれない……否やめよう。

 冷え切って感覚もほぼなくなりつつある手のひらに、ぐっと力を入れて目的の駅改札を探す。
 落ちていた視線を上げて、キャスケットを目深に被りなおすと左右を見渡す、駅入り口まで目測で五十メートルも無い程、走ってもたいした距離ではない。
 ビルの庇や、地下を抜けてどうにか此処まで濡れずに来たが、地下通路に降りる前に歩いてきた距離があっただけにすでにコートもしっとりと湿り気を帯びていて、今更気にすることでもなかった。

 土地勘の無い場所なのであまり廻り道を探すのも面倒だ。 
 地下通路と連結されているだろうかけれど、今からもう一度階段を降りて人混みに揉まれながら移動するという選択肢は些かげっそりさせられるルートで即座に消去。
 時刻はといえばそろそろ帰宅ラッシュに入る時間。学生は春休みといえども、この一帯はオフィス街にも近くどこからともなく人の気配が濃くなるのを感じていた。
 
 ―――パシャン…ッ


 駆け出した足元で、小さく水音がした。





「――ッた」
「あっ……と、ごめんね!」
「……いえ、僕の方こそ前を見ていなくて……すいません」
 キャスケットを押さえて、雨から顔を背けるように視線を下に向けて走っていたのが災いした。
 まずいと思った時にはもう遅くて、目の前にあった広い背中にほぼ減速無しで突っ込んだ。相手はといえば、前のめりにバランスを崩してたたらを踏んだ程度で、ぶつかった自分の方が後方へ身体が傾ぐのを止められない。
 ドサリと、重たいものが地面に叩きつけられる鈍い音。
 手に持っていたブリーフケースが足元に転がっていた。
 咄嗟に、彼が手を取ってくれなかったら自分も今頃は同じように、冷たい路面に転がっていただろう。

「ほんとうに、すいません」
「いいよ。俺は平気だから。それよりも早く屋根のあるところに入ってしまおう?」

 頭一つ分は長身の青年。
 高校生か、大学生か、年はおそらくそうは離れていない。
 明らかに過失自分にあるのに、即座に謝辞を述べ、手を差し伸べる事が出来る彼の余裕、気遣うやわらかな声がチクリとコンプレックスを刺激した。

 こんな時に、自分の体格が心底忌々しい。

 相手はと言えば、自分よりも頭一つ分は長身。彼の眼には自分はそのように映るのだろうあかなんて、普段なら思いもしない事なのに………否、こんな時に考えることではない。


「……あ」
「あと少しだから、走ろう?」

 冷え切った指先が上手く動かず、片手で指を温める仕草を目聡く認めたのか、雨に濡れ続けるアスファルトに落としたままのブリーフケースを拾ったのは、彼。
 声を掛けるよりも早く、腕をとられた。



「本当に、ご迷惑をお掛けしました」
 

 相手にしてみれば想像もしていないだろうが、本来なら他人の手になど渡してはならないような機密書類であった事に青くなって、彼の手になおも有る鞄をむしり取る。
 自分の失態はともかく、持たせたままだった事に対する罪悪感とどちらが先行したのか……。
 勿論、他人からの純粋な好意に対して礼を失したままで居られるはずもない。

 湿ったキャスケットに手を掛けると、頭を下げる。

「そんな、もういいよ。よれよりも、もうすぐに暗くなるし早く帰った方がいい」

 まるで、子供に言い聞かせるような声だった。
 これ以上引き留める事がない様にだろうか、返答を聞くよりも前にじゃあねと手を振ると、改札を潜る背。
 しっとりと水気を含んだ髪が弾く銀の光彩が、雨の匂いに満ちた駅の雑踏に消えてゆく。

 
 やさしい人なのだろう。

 彼にとっては寒い雨の日の、見ず知らずの子供との些細なすれ違い。
 まさか、その子供がひび割れた目で、その背を見送っていたなんて思いもしない。

 白く紙の様になった手を、きつくきつく、血でも滲みそうなほど握り締める。

 やわらかい声だった
 おだやかな耳触りの良い

 けれども、それがどれほどのものを抉っていったのか……。



―――――女の子が、あんまり冷やしたらだめだよ



 その時感じたものは何だっただろう。


 怒り、哀しみ、焦燥、或いはそれら全て。
 混ざり合わされば堪らなく空虚。

 矛先も分からず、ただただ持て余した感情、独りきり知らない街で、叫びだしたいくらいの恐怖だったと後になって気付くもの。
 この慟哭を聞くものは居らず、そして発露の術も知らない。


 耳の奥で金の眼をした無邪気な子供が哂う声がした。


例えば、こういう出会いはどうでしょう。
無料配布本でした。