Inversion






 「―――え?……痛、っ……た…!」

 視界いっぱいに広がった空は、青かった――。
 十二月の寒空の下、背に剥きだしのコンクリートはあまりにも冷たい。
 こんな日には、晩御飯は温かいものを……などと、そんなことまで考えかけてやめた。
 止めざるを得ない。
 けぶった空が陰る。いや、太陽が雲に覆われただとか急に雨が降り出しそうだからだとかそういう事ではない。
 地面に転がされた自分に覆い被さる影があるからだ。
 
「先輩のせいです」
「ぃ…は?え…え………」

 なかなかないだろう。この光景。
 身長180に近い長身の高校生に、小柄な少年が馬乗りになっているという。こんなシュールな絵などそうそうお目に掛かれるものではない。
 付け加えるなら小柄な少年……は、実際少女。
 男子高生が華奢な少女にマウントポジションを取られているのである――。

「……ち、近いです…直斗さ、ん」
「嫌なんですか?」
「い、や…」
「………」
「…………違う!違うから!!そうじゃなくて!」

 非力な女の子と侮るなかれ。
 シャツの合わせを手繰られたかと思うと、彼女は胸倉をおもむろに掴むと顔を寄せる。とても心もとない事に、後頭部は浮いている……。
 たとえば、例えばの話だけれど。
 これが泣きながらならば、宥めて話を聞くという流れに持ち込めただろう。考えたくもないが何か悪いキノコでも食べたような正気の沙汰とは思えない哂い方をしていたならば、多少強引ではあるがそれなりの対処に出ただろう。
 けれども、どれとも違うのだ。
 
「そうじゃないなら」

 ぐっと襟に掛かった手に力が込められて、更に距離は近くなる。それこそ、比喩ではなく互いの吐息がかかるほどに――。
 ほとほと困っている。困っているというか、焦っている。
 この状況を脱することは、可能だ。彼女と自分との絶対的な筋力の差。ウェイトだって。細い体にのしかかられているだけなのだから、払いのけることも、逆に拘束することだって、組み敷くことも自分にはできる。
 できるが。
 こんな、切羽詰まった……それすら通り越した、据わった眼。ともすれば、冷たいと表現してもいいような視線が至近距離で見下ろしてくる。
 正直言えば、これだけで身動きが取れない。蛇ににらまれた蛙。捕食される動物の気分だ、
 ああ、やっぱり可愛いなとか、肌綺麗だなとか、瞳の色がどうしようもなく好きだなとか、唇柔らかそうだな、などと反射的に思う反面……ちょっと、こわい。
 危機的な状況。だと、思う。
 何がと、問われると名状し難い何かがとしか言いようが無いのだが。
 誰か、この状況に至った経緯とそして理由を説明してくれ。寒い寒い凍えるような冬の屋外で、これほどおかしな脂汗をかくことになっている状況を事細かく、そう、詳細かつ簡潔明快に教えてほしい!!!
 
 もちろん、答えを持っているのは彼女しかいないのだけれども―――。

「いや、待って直斗どういう…」
「充分待ちました」

 にべもない。
 見事なまでにすっぱり切り伏せる。

「待った、って…?」
「待ちました!!」
「ごめん、俺が何かしたのなら――――……ん……んんんッ…?」


 ―――音がした。
 
 苛立ったような声と共に、感情の汲めない目が細められる。
 それが、あっという間に近づいて……幸か不幸か、何が起こったのか理解はできた。
 不幸、だなどと言えば天罰が当たるだろうし、これも勿論ひとつの幸せであることは間違いなのだろうし、間違いなく『わぁ…』なんて事を、ワンテンポ遅れて今まさに歓声を上げ始める自分も感じている。
 いる、のだ勿論。
 こういうのは、もうちょっとこう、こう、ね?
 ガチッて音、したよ?
 歯、当たった……ね。
 ちょっと、痛かった。というか、口切ってないだろうか。自分よりも彼女の方が心配。
 うん、そう。
 そうそうそう。


 ああ、これが自分たちのファーストキスか―――……。


「―――……っ痛……て…」
「…………」

  ぱっと離された手、それまで彼女の両手で持ち上げられる形になっていた後頭部は、まっすぐにコンクリートの床に―――。
 強かに打った後頭部の痛みに、我に返った。
 それは、痛い。いろいろ痛い。いろんな意味で、痛い。
 彼女はといえば、手の甲で軽く唇を拭った後ふんと息を吐く。ああ、なんて男らしい仕草であろうか。
 やはり決意のまなざし、と言うには、どうにも読めない据わった眼でこちらを見る―――。
 いっそ、これは見下しているとでも評したらいいのだろうか?
 なぜ、どうして? 
 とてもではないけれど、聞ける雰囲気ではない。
 それに、衝撃を与えられたおかげか痛む頭部がちょっと働き始めた。
 
 ―――嗚呼、そうか……。

 言うべきなのだ。
 これは。


「……ごめん」











*  *  *  *  *





 白鐘直斗は今日も、自らが内包するあれこれを持て余していた。


「お疲れ様でした」
「ごめん、今日バイトあるから……」
「だいじょうぶですよ。まだ明るいですし、少し買い物したらまっすぐ帰るので僕の事は心配しないでください」

 勿論、理由というか原因は目の前にいる特捜隊のリーダーである。
 そもそも、今現在事件以外の事で直斗を悩ませるのは、学校のテストの成績でも、学校の対人関係でもなく、今でさえ靴箱に入れられているラブレターでもなく、伸びない身長や、少しサイズの変わった下着や、実家のあれやこれやなどといったそんな些末なことではなく、『彼』その一点以外ありえない。

「そう。じゃあ、気を付けて」
「先輩も、頑張ってくださいね」

 奇妙な世界から引き上げるために、今日もまた家電売り場のテレビをくぐってそして何事も無いかのように日常へと戻ってゆく。
 レトロで可愛らしい三段に積み上がったテレビの縁に手をかけて、仲間たちの姿は次々と画面の中に吸い込まれてゆく。
 愛嬌のある仕草でそれを促すクマを横目に、今まさに天城雪子の艶やかな黒髪がすっと流れた。
 今日もアイテム散策と各自の鍛錬のためにやってきたのだが、もともと定期試験が控えていいる今の時期である。長くは潜らずにいようと、学生の本分を全うするための約束が今日はあった。
 
「学生の本分……か」
「先輩はいいんじゃないですか?何しろ学年主席」
「あのね、プレッシャーかけないでくれる?」
「トップというものは、常に追われるプレッシャーに苛まれるものなのではないですか?成績下がったらバイトのせいですね」
「別に首位云々はいいとしても、そういう言い方されるとな……気抜けない」
「明日、遠慮しましょうか?」
「いや、いいよ。一緒に昼食食べてから勉強しよう?せっかく午後空いてるんだし、皆とじゃ勉強にもならないし」

 明日は午後からの授業が無い。
 テスト勉強を見てほしいと、控えめにお願いしてみれば彼は二つ返事で頷いてくれた。
 いつものように、手作りのお弁当を食べて図書室にでも行こうと持ちかけられた。彼の部屋でも……自分の部屋でも、構わないと思ってはいたけれど、自ら切り出すのははばかられた。
 そうこうしていれば、いつの間にか自分の順番が回ってきている。テレビへと手をかけると、よじ登る体制にごく自然に後ろから手が差し伸べられて、目を伏せる。
 大きくて、温かくて、今は何よりも安心する。
 そっと背を押されると波紋が広がる画面に身を投げ出した。視界がねじれて、回る。
 もう慣れた感覚ではあるけれど、やはり体のどこかがまだ少しこの異次元を渡るという事象を恐れているのか背筋がざわつく。
 情けないと言ってみれば、失ってはいけない感覚なのだろうと諭す声があった。



「僕は、うぬぼれすぎなんでしょうか………」

 全員が戻った事を確認すると、皆それぞれ帰路へと付く。
 いくらなんでも、こんな大人数でテレビ売り場で毎日毎日たむろしていては目立ちすぎる。しかし、やはり今日もジュネスの家電売り場の人口密度は低い。
 それじゃあ、バイト行ってらっしゃいと手を振るとぽんぽんと頭を撫でた手を軽く振って、さきほどまで命のやり取りを強いられる場所に居たとは思えないような足取りで、下りのエスカレーターに運ばれ階下へと消えてゆく長身。
 ぼんやりと見送りながら、なんとも言えない寂しさをかみしめる。
 ぽっかり空いた穴というほど空虚ではないけれど。こんな時に考える事ではなのだろうなと、自らを窘める気持ちもある。
 なんというか……不謹慎だ、と思う気持ちも少なからずあるのだ。
 けれども、いつの間にか育ってしまったものがそれを易々と凌駕する。
 そうだ。非現実すぎで麻痺してしまっているのかもしれない。
 初めは酷く消耗したけれど、体が慣れたのだろう。当時ほどの消耗をいつの間にか感じなくなった。
 これも、一つの日常となってしまったという事なのかもしれない。
 毎日毎日、見つめ続けて――。
 
「――あ」
「はいはい。さっきから居ましたよっと……」

 何とも疲れたような溜息と共に口走った言葉を聞くものが、一人。
 すっかり忘れていました。
 まさか、言葉に出すつもりはなかったのだけれども、現状に対する不平不満の吐け口、というか、まあそういう相手を欲していたような気もする。だからといって、この自分がこんなにプライベートなことを他人に気取られる(自ら口に出したが、まあこの際それはいい)なんてやはり、少しおかしいのだろう。
 ただし、『あなたの親友はどうなっているのだ』詰め寄るならば、この人だろう。
 平時ならば、そんな事を誰かに漏らすような性格ではない。プライドにかけて、だ。
 けれども、はっきりいってもう限界、というか、なんというか……。

「……自惚れてはいいと思うけど……まあ、ちょっと一発殴るくらいの事はしてもいいんじゃね?」

 的確すぎる。
 何かしら、タイムリーな話題が彼ら二人の間に上ったことを知る。
 そもそも察しの良い人だ。そして更には、先ほどの呟きにしろ、そして先日のあれこれにせよ、直斗自身が答えを導き出せるカードを彼に示してしまっていた。
 なんだかちょっと投げやりだ。お互いに。
 この人だって、こんな事に好き好んで首を突っ込みたくはないだろう。好奇心は猫を殺す。
 何かと物事を茶化すことのある先輩ではあるけれど、言葉の意味を知らない人ではない。何しろ対象が自分と、そしてこの人の親友のあれこれであるので。
 逆に、親身になられてもそれはどうなんだ?
 ……以前、花村陽介には見られていた。
 男性陣が帰宅した後、女の子だけでお茶飲んで帰ろうとフードコートへと拉致された日を。

 それは、あの運命の日。 

『直斗と付き合ってる』

 仲間たちに、打ち明けた日の事。
 はっきり言って皆の反応は予想よりよほど淡白だった。クマの着ぐるみが怒涛の勢いで食いついてくるのは想定内だったから問題ない。なんだか動きを止めた同級生の姿を横目に、やれやれと肩をすくめてその肩をばしばしはたき始めた元アイドルは『ようやくカミングアウトきた!!』などと笑う。
 先輩方はと言えば、始終おだやかにニコニコとしているばかりで『皆気づいてると思う』という彼の言葉を裏打ちしていた。
 幾分非難めいた目を向けられることも覚悟の上でのカミングアウトだったから、手は氷のように冷たかったし、少し震えていた……初めての恋は大切だったけれど、けれど初めての仲間……同性の友人たちだって大切だった。

『ね?大丈夫だっただろう?』

 にこりと笑いかけられて、はにかむように頷いた。
 恥ずかしい、くすぐったい、そんな気持ちを抱きしめて。やはり仲間たちは何にも代えがたく大切だとかみしめた。
 しかし……いや。
 そして―――。
 問題はそのあとだった。
 言葉巧みに久慈川りせが、男性陣の排斥にかかり天城雪子も里中千枝もその流れに加勢したのである。
 あからさまな男は帰れの空気を読んだのか、女同士の友情を優先してくれるのか、彼らは素直に退散した。笑みをのせて退散した。
 若干の同情が込められていた視線をよこしたのは、暴れるクマを抑えつけている花村陽介のみ。悔し紛れにこういう空気の読み方をするから、逆に彼はダメなんだなとか手ひどい評価を付けた。
 そうだ。
 爛々と輝く少女たちの好奇心の目に尋問を受ける運命は、逃れようがないわけで―――。
 
「なかなかに堪えがたい状況でしたよ……」

 明後日の方向を向く先輩に畳み掛ける様に言う。

「なんかもう、男性としての沽券が傷物になろうが構わなければよかった」
「……おい、聞こえてんぞ探偵王子」
「いえ。失礼」

 何をどこでどうしてどうなって何処までいっちゃったの?

 質問内容を纏めればだいたいこの程度だ。
 年頃の少女たちの話の内容は、どこでも同じようなもので、前の学校でも今の学校でも数人のグループになれば、楽しそうに話している声が漏れ聞こえてくる。それは、彼女たちだって例には漏れない。
 だから知っている。
 年頃の少女たちが、顔をしかめたくなるような内容まで突っ込んで探索する事を。
 勿論、彼女たちにそこまでの追及を受けたわけではない。優しさなのか、自分に対する気遣いか、純朴さなのか、自分と……もしくは彼との近しさゆえのことなのかは解らない。けれども、そうでなくともこの時間はつらいものがあった。


 恥ずかしくて、何一つ要領を得る話などできなかった………。


 と思ってくれているだろう。
 見かねたように、バイトのエプロンをつけた花村陽介が彼女たちに帰宅を促してくれたその時までうつむいて、唸るだけの自分を彼女たちはそのようにとってくれた、と思う……たぶん。
 いや、どうだろう?
 そうだといいと思っていたが、真実がばれていたとしても、今となっては、もうどうでもいいか……ともかく、そんな諦めた感じだ。

「……、…目、死んでるぞ……」
「………付き合うって、なんでしょうね」
「あー……」

 かしましい少女たちが去った後、そっと顔を上げた自分を見て花村陽介は言った。
 若干引き気味で。
 その後、自分が発した言葉も悪かったのだろう。
 しかし、それだけで何かに気づいた顔をしたことが、彼の人生における敗因である。察しが良くても人生は損をするものなのだと、この時まだわずかに残っていた冷静な部分が学習した。
 親友に対する弱みとしてちらつかせられれば、この先何かと有利だろうが生憎そこまで彼はすれていないらしい。
 ただし、彼にそれを知られてしまった……いや、或いは知っていたのかもしれない……そのことが無性に腹立たしいやら虚しいやらで、死んだ目と証されたそれがさらに色を亡くしたような自覚を覚えた。
 
 あの日から、妙にもやもやとしたものを、直斗は持て余している。
 






 あんがい、ヘタレ……


 何か、聞こえた。
 ぼんやりと回想している思考に。するりと何かが滑り込んだ。

「いや、ほれお前もさっさと帰れ」

 取り繕うようにして帰宅を促されても、愚痴のようにこぼれた声が聞こえてしまったものは仕方がない。
 どうしようもないな、などと髪をガシガシとかき分けながらの呟きはばっちりと聞こえていた。
 ああ、やっぱりあなた何か知ってたんですね……。
 薄々思っていた事を、この人に肯定されようとは。
 彼とは親友という間柄。男の子だって、他人の色恋の話は恰好のタネだろう。
 今自分の恋人と言う立場に収まった彼。花はよりどりみどりだという、大変に恵まれた状況に置かれながらここまで決まった相手を作らず。遊んでいるのだろうと調査でもしてみれば、まったくの潔白で。
 深夜のバイトも幾つかこなすという、あまり世間的に耳触りのよくはない素行ながら、何一つ上げ足をとれるような粗を出さなかった人。
 彼に想いを寄せる子がいない訳ではない。いや、むしろ、多い。
 何しろ時折下駄箱に入れられているラブレターは少なくない事を知っていたし、直斗を目の前にしてあからさまにアプローチをかける子もいる。 
 特捜隊のメンバーだって確かに自分との仲を喜んではくれたけれど、ほのかに育っていた想いが彼女たちの中に無かったのかと言えば、なんの屈託もなく否定されることは無いだろう事を察していた。
 直斗には、それをどうこう言う権利など何処にもないのだけれど。
 自分は選ばれて、そしてそれを彼女たちは心から祝福してくれた。
 それはまた確かな事で、とても幸福なことだとわかっていた。



「花村先輩」
「お、おう…ちょっとこれから俺バイト……」
「ここジュネスですよね?僕、一応お客様だと思うんですけど?ちょっと教えてほしい事があるんですよ」


 彼、花村陽介は見ているのである。
 直斗側からではなく、彼サイドからだがそれは傍観者として一番良い席現状を。そして、両者の手の内をほぼ理解しているといっても過言ではない。
 八つ当たりだとも思う。
 親友と言うポジションが欲しいわけではないけれど、なんとなく彼らの関係は羨ましい。
 何も、恋人に隠すようなことは無いのだけれど、やはり男性には言い辛い事もあるし、また、自分が理解できない事だって少なからずある。
 だって、男と女は違う。
 だから彼が花村陽介とどんな会話をしてのかという内容は気にはなるが、嫉妬や羨むといったことは筋が違う。
 違う、はずなのだが……自分よりも、あの人に近しい人が居るという事実は事実だった。


 にこりと笑う。
 じりりと後ずさるのもいいだろう。
 しかし、もう手段は択ばないと決めた。
 我ながら子狡い。しかし、それで現状打破できるなら、なじられてもいいと思った。
 自分にだって、言い分がある。


 彼女たちの詰問を受けながら。
 
 何も

 何一つ 

 何一つとして 

 無い事が そこでどれだけ自分を打ちのめしたか 



 彼は そろそろ思い知るべきなのである。








*  *  *  *




「……何がごめん、なんですか」

 思い立ったが吉日というか、なんというか……。
 おあつらい向の昼食の約束。おまけに、今日は午後の授業が無いと来ている。
 晴れているとはいえ、こんな屋外で昼食にしたいという申し出を快く彼が受けた時に一つ心は決まった。
 ごちそうさまでしたと、お行儀よく手を合わせれば満足げに彼が頷く。

 その肩に手をかけたのはその一瞬。
 不意を突いたのもある、けれど随分とあっさり彼は床に転がった。
 困惑だけが浮かんだ顔をねめつけて、自分の不平不満をすべてぶつけてやった。
 これは報復だ。
 そういうものは、男の子から……などというネットで得た知識なんぞ何一つ役には立たなかった。
 待ってるだけではいけないことが世の中にはあった。恋愛で学んだ訓示はと言えば、欲しいものは奪い取れ、である。
 初めてのキスは、まったく甘酸っぱくなんてなかった。
 言うならば戦果か―――。色気のない事だ……。

 流石に初めてのことで、奪いはしたものの行為として成功したかどうかは……いや少し口に鉄の味が広がっている時点で成功ではないかもしれない。
 それでも、ここまできてすっとぼけるようなことを言いだそうものなら、いっそここで脱いでやろうくらいの覚悟もあった。一旦決意してしまえば、後はどこまでもいける気がした。
 相手は、これだ……。
 流石に、何かしら理解はした様だけれどもあまり油断はできない。
 先の「ごめん」という謝罪が何に掛かるのか。
 訳も変わらないまま、謝罪の言葉を並べられたところでそれは何の意味もなさない。

「随分、追い詰めた事」

 ひゅっと息を詰めた。
 ああ、やはりそこまで侮ってよい人ではなかった……。
 いつの間にか腕の中に抱き込まれていて、抗うことなく大人しくその人のぬくもりに縋りつく。
 非は自分にあるのだと、そんなに素直に認めてしまわれるとまた自分の立場がなくなって、わけもわからずにまた当たってしまいそうになる。
 ぎゅっと唇を噛んで。解っていた、これは甘えと言うものなのだろう。
 こんな風に彼が折れるとわかっていた。折れる、と言うのもおかしい。彼の言葉は直斗の全てを肯定した。
 責めるような含みは何一つない。
 ひどく機嫌を損ねてしまうだろうかとか、いっそ関係そのものが破綻してしまうだろうかとか、そんな昏い予測ならいくらでもした。
 けれど、どこかでこんな風に受け入れてくれるだろうという確信にも似たものがあった。

「大事にされたいわけじゃ、ないんです」
「俺は、大事にしたいよ」
「―――僕だって、でも…だけど、あなた、はっ……!」
「うん、そうだね。違う、俺が、嫌われなくなくて」
「………」
「……あの、ね…俺だって、普通の高校生だから。触れたい、とか、そういうのはずっと思ってたよ」

 胸に埋めていた顔を上げると、ふっと視線を逸らされた。また、眉根に皺が寄る。
 けれど、慌てて顔を押し付ける様にまた抱き込まれて、今日の所はこのくらいで勘弁してやってもいいかなとも思う。
 だって、ずるい。
 そんな事を言われたら、何も言えない。


『……大事なんだってさ』
 花村陽介は、仕方がないとそれだけを言って逃げる様にその場を離れた。
 その言葉の意味は、たぶん正しく理解している。
 公衆の面前で顔を真っ赤にしてしまったくらいには。自惚れてもいいのだろうか。

「……てっきり、僕は、……僕がこんなだから、……」
「俺は直斗が良い」

 彼が、自分を選んでくれたことは確かだけれど、それに見合うだけの価値を『少女』としての価値を自分に何一つ見いだせない。
 告白だってしてくれた、自分から誰かに好きだと告げたのは初めてなのだとこっそりと教えてくれた。
 それだけで舞い上がってしまった……だけど。
 春に稲羽を去る人。
 別に、今生の別れだとかそんな事ではないけれど、当たり前のように毎日顔を合わせている日常が、当たり前でなくなる。
 これまで、この手の事にまったく縁がなかったとはいえこれでも一応現代っ子だ。
 何一つ下世話な知識がない訳じゃない。
 彼はとても自分の事を大事にしてくれた。
 他人とのコミュニケーションを避けてきた事を踏まえたからこそなのか、今思えば手一つ繋ぐのにも慎重だったように感じる。
 まさか嫌ではなかったし、何より他人のぬくもりというものに初めて触れて手放しがたくなった。
 もっと近くに行きたい。
 それは当然の欲求だ。
 今だって、背に回された腕に湧き上がってくるのは喜びで……だから、『大事にしたい』なんてそんな事、言わないでほしい。
 手が触れる。手を触れ合せる。不満だったわけではない。
 付き合っている、恋人同士だという。
 けれど結局のところ、自分が彼に焦がれる少女たちよりも彼に近しい事、許された事を思えばあまりに稚拙で、どうしようもなく堪えきれなくなった。
 抱きしめられた事だって、数えるほどしかない。うれしいと思った、そしてもっとしてほしいと。
 彼の方が一つ年上だ、だけど自分たちの関係はこの場合フィフティのはずではないだろうか? 
 だったら、それなら、自ら仕掛けることの何がいけない。

「……なんですか?」

 ふぅと、重いため息が漏れ聞こえてきた。

「情けないな、俺」

 ああ、そんな事。
 これが、いわくヘタレというやつか……。
 ここまで追い打ちをかけるのも忍びないので、言わないけれど。
 いつも何事にも完璧な人だから、自分がこんな風に振り回しているのかと思うと、嬉しいと少し思ってしまう。
 勿論、今でこそ出てきた余裕なのだろうけれど。
 ギュッと、シャツを掴む。

「……そんなあなたでも、僕はずっと好きですよ」
「それは、どうもありがとうございます」
「僕から攻めればいいんだって事、覚えましたから」
「えー………悪くはなかったけれど、そればっかじゃね……」

 ふっと、身体が浮いた。
 背を起こした人に揺らぐ上体を支えられて、どうにかバランスを取った。
 いまだに彼に乗り上げている恰好だけれども、座った状態だとやはり身長差を思い知らされる。
 ただ、改めてギュッと抱きしめられのは悪くはない。
 自ら擦り寄る。
 そうすると、そっと耳元でささやく声がした。



 ―――まずは仕切り直しに、俺からキスしたいんだけれど?




「どうしましょうか?」
「……あの、ね……そういうの、生殺しっていうんだよ」



 ふふっと笑みがこぼれた。
 この申し入れは、暫く保留にする―――。









 空前の直主(直)ブームが到来してしまった次第です。
 直斗さんが押して押して、引き倒すくらいの勢いでも私はいいと!思う!!!