「先輩は恋をした事はありますか?」
隣に腰かけた小柄な少女が、逡巡した後に呟いた言葉。
それは独り言と聞き流すには、あまりにも純粋に自分への問いかけを為していた。
瞬間目を向ければ、宵を待つ深いアーモンドの瞳が持ち前の知識欲とも探究心ともつかない色を乗せている。
―――嗚呼、そうきたか……
動揺したかと問われれば、否と言うだろう。
伺い見た彼女の瞳で、表情で、手に取るように解ってしまったのだ。
期待してしまいそうな何かを見つけられない落胆と、そしてそれが見られない事への安堵。
もう、何度か繰り返した相反する葛藤。
楽になる方法は知っていたけれど、そうする事に躊躇する自分が居る。
ままならないのは始めから分かりきっていた事で、その半面日々無情に過ぎてゆく時をひたすらに惜しむ毎日に嫌気がさしてもいた。
焦ってどうこう出来る事でもないけれど、どれだけ言い聞かせても春までに残された時間は少なく、否応なく追い詰められる。
これはもう後にも先にも行く事が出来ないくらい追い詰められた自分へ、神様とかいう誰かが与えてくれた千載一遇のチャンスなのかもしれない。
……などとでも考えられる思考でもあればいいのだが、相手が相手だった。
恋など、今まさに進行形なのだよ名探偵?
肩をすくめて宣言でもしろと言うのか?
本人に?
大きなアーモンドの瞳を見開いて『どんな方です?』と問われた時、『君が好きなんだ』と告げる事に躊躇している。
そう。
別に、動揺などしていない。
その筈だ。
その筈なのに。
口を付けていたペットボトルの中身を無意識に嚥下する事にさえ、失敗して堰き込む背を慌てた様子で小さな手がさする。
その掌が自分のそれで包み込めるほど小さい事を知っている。
年不相応に、一人で抱え込めないほどの物を、抱えたいともがいている事も。
いちいさな温もりを背に感じながら、無様だなと自嘲した。
「すみません、不快な話題だったら謝ります。別に詮索したいとかそういう事では無くて」
「……いや、いい、よ。ごめん、直斗からそんな質問来ると思って、無くてびっくりしただけだから」
それは、少しだけ、嘘だ。
頑なだった彼女の世界は少しずつ変化をしていて、受け入れようと、追いつこうと、手に入れようと懸命な事を察していた。
興味の欠片すら見出さなかった同年代の友人達、クラスでの居場所を距離を、自分や特捜隊のメンバーを足がかりに少しずつ築いている。
この前の休日、りせや完二更に小西尚紀といった同学年の友人たちと楽しげに走り回っている姿を見ていた。
鬼ごっこだろうか?子供の遊びだった。
大多数がこの歳に至るまでに、幼い記憶の中で経験しているような。
昔を懐かしんでいるだろう、他のメンバーと違って彼女にはその記憶は無く、新鮮だったろう。
見たことの無い無邪気な横顔を見ながら、感じた寂しさは今も鮮明に覚えている。
彼女が大人社会で渡って行くために払った対価を、自分は測れない。
性格が性格だった。妥協の一つも受け入れた事は無いのだろう。
まして、嫌悪する性別と言う最大の重荷をカバーするための武器は、知識以上の物が無いのだから。
排他的な警察内部で、しかもこの年齢で協力員として招かれると言う立場を築いてきた実績は、彼女を庇護する家の名だけではないはずだ。
性別にこだわり続けていたのが幸か不幸か、名門の名は前を見据える矜持だけを与えた。
『報酬は要らないから捜査に協力させてくれ』
自分は、叔父と彼の部下である足立の会話で知っていた。
警察側にそういった協力者が現れた事を。
その時は別段気にも留めなかったが、目の前にすれば一筋縄ではいかなかった。やましいところがある訳ではないが、探られて素直に答えられる事でも無いのだから選択肢は黙秘のみ。
あの世界が、現実と暴かれれば技術の粋を集めた科学捜査の手も加わる。
そうする事が、何より早く犯人検挙に繋がるのではないかと過りもしたが、ペルソナ能力が今の科学で解明できる何かだとは到底思えない。
自分たち高校生だけの手に負えるかよりも、大人たちがこの事態を持て余す確率の方があるかに高い。
下手をすれば自分たちを犯人に祭り上げるくらいの事はしてくるだろう。
それに、人では無いクマはどうなるのだろうか。
そもそもあの世界は、彼の居場所で故郷で、静かに暮らせる場所だ。
自分たちの行動に目を光らせ始めた警察である叔父よりも、手ごわいと思ったのは小さな探偵。
出会った時に、報酬、対価を受け取らないという言葉の意味を意思を、叔父たちよりは酌んでいた。
頑なな、けれど強い目。それでも、どこか脆いと感じたのだ。
大人たちと同じように、いつか諦めるだろうとは期待は出来ないと感じた。
理路整然とした言葉を並べる癖に、あんなにも危うげだったから。どこか自分たちと似ていると感じたのかもしれない。
そうして、何時しか気に留めるようになっていた。
叔父たちが「これだから子供は」と切り捨てた声を覚えている。
『遊びなのはそっちでしょう』直斗が連れ去られる前にりせが彼女に言い放った言葉も。
浮き沈みの激しいビジネス社会で必死に上を目指してきた子供の振りをしてきた大人、排他的な社会で自分を確立させたい、認めてほしいとあがく大人の振りをした子供。
二人は相反している。
遊びと言う言葉がこの場合適切だとは思わないが、感覚でりせは直斗が子供の理屈で動いている事を見抜いたのだろう。
正当な報酬を得るという事それ自体が外界からの評価そのものに他ならない、当然の代償を受けないという事はどういう事なのか。懸命さは届かない。そのひたむきさは、そこに通りはしない。
何も分からない子供と切り捨てられ、世間知らずの箱入りと影で囁かれる。
彼女が憧れてやまない、欲してやまないものは、金銭ではなどでは無かったけれど、そうして不要なものを切り捨てて必死に追い掛けて、けれどもそうすればするほど手が届かない歯がゆさに何度もはばまれてきたのだろう。
いつしか、真実に価値を見出すことにプライドの全てを注ぎ存在意義になる。
求めるものこそ欲する対価であって、それ以上も以下も無い。
険が籠った瞳が見据えてくる度に、被疑者である自分たちへの警戒に隠した言い表せない焦燥の意味を、もう知った。
けれど会った当初、触れれば切れそうだった彼女が、仲間たちの輪の中で穏やか表情を見せ、自分の隣で屈託なく笑う。
大人びた事を言うくせに、他愛ない言葉に大きな瞳を輝かせ、時に怒り、拗ね、毎日違う表情を見つけて心弾ませる自分に気付く。
なんでも無い日々がそれだけで貴くなった。
嗚呼、愛しいな。
自然にそう思う様になった。
何時からだなんて、もう覚えていない。
「ありがとう、もう良いよ」
声にならない声で伝えると、そっと離れる小さな手の平。
例えば、今ここで欲しいものはそれ一つなのだと伝えたら、明日から自分たちはどう変わってしまうのだろうか。
自ら囮となるという無茶な手法によって、彼女もまた誘拐の被害者となり、そして見せ 付けられた現実を経て自分たちの仲間となった。
ひたすら秘して、自分ですら直視してこなかった真実を曝け出した相手への安心感か、あれだけ隠しもしていなかった警戒はあっさり霧散して、寄せられる信頼は日々深くなり、射抜くようだった瞳は嘘の無いひたむきなものに変わっていた。
自惚れでも何でもなく、それは好意だ。
けれど、それはたぶん自分が欲しいものではない気がする。
我儘だと思う。
自分が寄せる分だけ同じ物を返してほしいなんて……。
だから望まぬ変化ならば、いっそこのままでいい。
随分と後ろ向きだとは思うが、八方塞だからといって突っ走れるほど自棄にもなれない。
いっそ言ってしまえればどれだけ楽だろうか?
今も、例えばもう少し下世話な好奇心であったなら、話し様もあるのに―――。
「僕は、これまで切り捨てていたものを、いろいろと拾って行かなくちゃいけないんだと思うんです」
「………」
知っているよ――……静かに瞳を閉じた。
「背伸びばかりしていましたから、周りの子たちが何をして何を考えていたかなんて知りもしない、知ろうとも思わなかった」
「それで、人間観察でもはじめたの?」
「はい」
「……そう」
「そんな呆れることでしょうか?」
眉根を寄せた表情に何か勘違いさせただろうが、いい言葉が見つからない。
とても喜ばしい事の筈なのに。
君の興味が外へ外へと向いて行くから寂しい……だなんて、頼れる先輩の言葉ではないだろう。
「それで、その質問なんだ?」
「はい」
「直斗がこれ以上にないくらい客観的に見れてるから、主観的な意見が欲しいってことでいいの?」
頷く事を知っていながら問うた。
そうしたものかと葛藤が無いでもなかったけれど、言葉は随分あっさりと出てきた。
「しんどいよ」
一拍置いて、アーモンドの瞳が大きく見開かれた。
言ってしまえば、少し楽になった。
リアクションに困っているのだろう少女を横目に続ける。
「数少ない俺の……うん、ちょっとした経験と、めんどくさい自分観察の結果と、あとは頼んでも居ないけど周りの意見といろいろまぜてみた一言だけど」
「………」
随分と困らせてしまっているのは承知しているけれど、こうやって一生懸命自分に返す言葉を探してくれているのだと思うと、単純にも心が弾んだ。
いずれ、彼女も知るのだろうか。
恋なんて、そんなものだ。
とても単純で、とても重くて、そして苦しい。
困った事に、世界だって変える力を持っている。
想像もしていなかった。
歳相応……か、どうかは分からないけれど異性とそれなりの付き合いをした事はある。
鈍色の雲が浮いていた今の自分から見ても青いなと思えたそんな日。
初めて彼女と言うものが出来た。
浮き立つ心を必死に鎮めて帰宅した事を、それだけを、覚えている。
――これは、そういうモノなのだと、そうでなくてはいけないと……まるで刷りこみか何かだと今だから思う。
彼女の髪形も靴も声も表情も覚えていないのに、赤いマフラーだけがやけに鮮明で、どうしていいのか解らないなりに、目の前の少女が白い頬を耳まで染めて告げた言葉に一つ頷いたのだ。
そしてどこかで思った。
『こういうモノなんだな』
それは一つの経験で発見だったけれど。
誰もが解っている。
だから身を持って、ドラマのような恋愛がその辺りに転がっているはずが無いという事を納得するには充分だったらしい。
心の片隅に幼いながらに、その時芽生えてしまった感慨は結局払拭される事はなくこんなところにまで来てしまった。
昔から、感情の起伏はあまりない方だった。
そんな事は幼いとは言え、集団社会へ放りこまれれば他の子供との比較で否応なく気付く。
それが当たり前だったし、個性尊重を叫ぶ社会で、困る事も無かったわけで生を受けてまだ十数年の人生の中、自分は他人よりもドライなのだと自己分析出来ている
と思っていた矢先に躓いたのだからある意味青天の霹靂である。
知りたかった。
彼女の中で『恋』『恋愛』おそらく必要性を感じた事も無いそれをどの様に断じる?
下駄箱に入れられていたラブレターを思い出す度に胸が痛む。
どんな彼女だって好ましいし、いとおしい。
しかし信頼されている自覚があるだけに、今自分が『女』として見られているという事実をどう受け止めるのか想像するとどうしても一歩踏み出せない。
頼れる上級生だと思われているのなら、そうとしか思えないと、言われるならいい。
けれど、足枷でしかなかった絶対的な現実を受け入れる過程をみてきたのは自分で、だから寄せられる信頼なのだ。
繕い、偽る必要の無い相手への信頼というのは強い。とても。
警戒心の欠片すら見せなくなった真っ直ぐな瞳で見つめられる度にどうしていいか分からなくなる。
だから、裏切りだと……そう思われるのが、何より怖い。
我ながら重いなと思いつつも、今の心情を朗々と語ってみせた。
気付ける物なら気付いて見せろ名探偵………君がそんなだから、今の君より遥かに困った顔で毎晩自分は唸っているのだ。
想われる相手が羨ましいというのなら、そんな相手は辞めて自分が立候補するとでも言い放ってくれたら、これまでの君を一度諦めてまた惚れ直すのに。
都合の良い事ばかり考えている。
「ほら、そろそろ教室戻らないとチャイム鳴るよ?一年の教室、遠いし」
「でも――…!」
「いいから、行った行った。直斗くんに遅刻なんてさせたらりせに怒られます。片付けくらいやっとくから」
「……はい、それじゃあ、失礼します」
駆けてゆく背を見送って、小さな手から抜き取ったペットボトルを二本今朝下げてきた紙袋の中に放り投げるとほっと息を突いた。
切り抜けた事に安堵したのか、何一つ進展していない事に落胆したのかすら良く分からない。
ポケットから携帯を取り出す。
逡巡する程度には気が咎めたが、授業など出た所で気もそぞろに溜息を繰り返すくらいならば同じ事だろうと無茶な理屈に自分で頷く。
自分に残された時間は少ない。何をどう考えたって、タイムリミットは動かない。
戦略など立ててみたところで役に立たないのは身にしみている。
「羨ましい……ねぇ」
恨めしげな呟きが、自分のものだと気付く。
先ほどの一言がふとよぎった。
そんな事で今日も一喜一憂して、そしてまた今夜も出口の見えない堂々巡りをくりかえす。
不意に、仰いだ空は冬独特の澄んだ色をしていた。
「ままならないなあ」
一つ、小さな呟きが零れ落ちた。
リクエストもいただいたので、番長視点などでも……
と思ったらもう、どうしようもないめんどうな男になって修正のしようもありませんでした。
番長が積んだ!!
早く当たってくだけれないいのにね!
以下残念な会話文
「よう、優等生!!」
冷えたコンクリートに腰をおろして、ぼんやりを時を過ごせば古めかしいスピーカーからノイズ交じりのチャイムが鳴り響いた。
ホームルームには戻るべきだろうが、やはり面倒だ。
荷物だけは取りに戻らないといけないから、部活や帰宅で教室が閑散とするまでもう暫くやり過ごそうと考えていた所で親友が屋上のドアを開けた。
吹き付けた風に頬をひきつらせて、表情筋どころか感覚もオカシイのかだとか本気でいぶかしむ顔を作る。
そこまでは枯れていない…。
「アリバイ巧作御苦労」
「ったく、お前は得だよな……体調悪いから保健室行ってます!で、皆信じたぞ」
「日頃の行いが良いから」
「日頃の人当たりと成績が良うございますからね………さて」
「あ、先に言っとくけど別に振られたとかなんか落ち込んでるとかそういうんじゃないよ」
「え……そーかよ、ほんとにただのサボりなのかよ。さっき下駄箱でりせと帰ってった直斗の背中見ながら絶叫したくなった俺の優しい心に金払え」
優しい心云々はともかく、鞄一式持ってきてくれた事には感謝はしても良い。
「モテモテリーダーが漸くリア充生活始めました宣言するのかと思ってたら、よりにも寄って相手が……特殊過ぎて俺もちょっっともう、何もできねーわ」
「時間の残されていない我が身が哀しい」
「おい、その表現やめろ」
「いっそイゴってみたら……だめだ、全然足りない」
「よーわからんがなんか、怖い事言ったことだけは理解したわ」
「時間が巻き戻ったらいいなって話」
「お前からそんな空想科学なんとか的な台詞出ると嬉しくなるな」
「そしたら、まず完二迎えに来たあの日に…完二体育倉庫にでも放り込んでから理由付けてデート誘う」
「学校一の不良になんて事すんだよ……」
「もしくは、豆腐屋で会った時にプロポーズでも」
「それいいな、潔くオワッタ感じで。半径50メートルくらいは軽く距離取られる様になるだろ」
「ああ、直斗相手だし50メートルくらいのハンデなら付けても追いつけるからいいよ」
「やめて、やめて……警察か病院送られるから」
「なんとなく」
「はいはい」
「現状のが難易度低くい気がしてきた」
「そか、めんどくせーなお前。今すぐ呼び出してやるから告れ」